草野貴世 インタビュー Interview with KUSANO Kiyo

草野貴世 インタビュー
2023年9月11日
福岡県古賀市 草野氏の自宅兼アトリエにて
インタビュアー:川浪千鶴、小勝禮子、金惠信
紹介文・質問事項作成:川浪千鶴
インタビューの写真撮影:川浪千鶴、小勝禮子
書き起こし:木下貴子
公開日:2024年1月15日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

草野貴世 KUSANO Kiyo 美術家 Artist  (自宅にて)

1965年福岡県遠賀郡芦屋町に生まれる。1984年多摩美術大学彫刻科に入学し、諸材料コースでセメントや鉛を使ったミクストメディアの作品を制作。その一方で海外留学の準備を進め、1988年同大卒業後、ロンドン大学スレード校彫刻科(MA)に進学。1990年に同校を修了し帰国。以後福岡県を拠点に活動を行う(現在古賀市在住)。1991年に初個展(天画廊・福岡市)を開催。蜜蝋や鉛、ベルベットなど触覚的な異素材を組み合わせたオブジェ作品は、当時全国的に見ても活況著しかった福岡のアート界の注目を集めた。その結果90年代の福岡のアートシーンを代表するアーティストの1人として、三菱地所アルティアム(福岡市)などで大規模な個展を開催するとともに、「THE SPACE」展(シンガポール)や「ミュージアム・シティ・プロジェクト」(福岡市)など国内外の芸術祭やグループ展、美術館企画展への出品を活発に行なう。作品もオブジェを組み合わせたものから、壁や床、天井を蜜蝋や鉛で覆うなど空間全体を使うインスタレーションに変化していった。1993年に結婚し、1995年に第一子、1999年に第二子を出産。多忙を極める中、臨月でも個展を開催し活動を継続させるも、家族や自身の入院、事故が続き、2010年以降は創作や発表をペースダウンさせる。しかし、2016年の個展「水の間」(何有荘アートギャラリー・北九州市)において見事な復活を果たし、場の声に時間をかけて耳を澄まし、場の物語を丁寧に紐解いていくような、新たな創作のスタイルを得る。2019年久留米市の元絣倉庫を個展会場にした際には、久留米絣とその産地についてリサーチした内容を、映像や光を取り入れたインスタレーションとして発表。それをきっかけに、藍や発酵の在り方、人の営みと歴史などのつながりをテーマにした個展活動を連鎖的に開催し、現在に至っている。

本サイトの草野貴世のデータベース https://asianw-art.com/kusano-kiyo/


 

川浪:ただいまから草野貴世さんへのインタビューを開始します。2023年9月11日、草野さんのご自宅兼アトリエにて、本日の聞き手は川浪千鶴と、
小勝:小勝禮子と、
金:金惠信です。
川浪:そして、書き起こし担当の木下貴子さん。
一同:よろしくお願いいたします。

川浪:インタビューの趣旨としては、長く制作を続けてこられた女性アーティストがライフコースにおけるいろんな経験をふまえながら、自分の考えをどのように創作に反映させていったのか。そういったことをお伺いしたいと思っています。またアーティストになりたい、これからも制作を続けていきたいと思っている若い世代の女性アーティストたちに何らかの指針や励ましになったらということも目指しています。草野さんの歩みとアートの在り方について、プライベートなことも含む人生の転機や決断、選択についても差し支えない範囲で語っていただければありがたいです。よろしくお願いいたします。

一同:よろしくお願いいたします。

【幼少期から、美大進学を目指すまで】
川浪:まず最初に、生い立ちやご家族や生まれ育った地域のことについてお伺いします。生年月日と生まれ育った場所や環境についてお教えいただけますか。

草野:はい。1965年4月24日生まれです。福岡県の遠賀郡芦屋町というところで生まれました。芦屋町は芦屋釜*で有名です。猿釜*ですね。重要文化財の9つのうちの8つが芦屋釜らしいです(笑)。
[*芦屋釜=南北朝時代頃(14世紀半ば頃)から筑前国芦屋津金屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜付近)で造られた茶の湯釜)
芦屋釜の里HP参照  https://www.town.ashiya.lg.jp/site/ashiyagama/6949.html
[*猿釜(さるがま)=茶の湯釜の形状のひとつで、猿の鐶付を付けた釜]
茶道INDEX https://verdure.tyanoyu.net/kama_saru.html

一同:へ〜。

草野:そういう土地、地域ですごく田舎ですね。漁師さんがいる場所もあれば農業されているところもあって、自衛隊の基地もあります。ですから、戦後は進駐軍もいたりした地域でした。

川浪:それはあまり知らなかったです。

草野:ちょっと面白い、そういう地域ではありました。

川浪:学校はずっと地元ですか?

草野:はい、小学校、中学校は芦屋ですね、芦屋小学校、芦屋中学校。高校は一番近い北九州の、県立の東筑高校というところに行きまして。ですからそれまではずーっとJRも使わずにバスで(笑)。高校まではバス通学でした。

川浪:ご両親やご兄弟のことをお尋ねします。お兄さんとお姉さん、お二人?

草野:そうですね、兄が一番上で私と十(とお)離れていまして、姉が九つ離れています。上二人が年子で、私がぽつんと離れて一番下の末っ子でというような感じですね。父は自営業でしたので、母はそれを手伝っているような形で忙しい家でしたから上の兄と姉がとても可愛がってくれて。とても愛されて育ったと思います(笑)。

川浪:10歳離れていたらお兄さん、お姉さんでありながら親代わりですね、きっと。可愛い末っ子という感じですよね。

小勝:なんか海の近いところですか?

草野:はい、海が近くて。なかなか綺麗な場所です。

川浪:お父様は建設業の会社を経営されていた。

草野:はい、そうです。

川浪:お母様は家と会社の両方を切り盛りしていたということですね。産まれたとき大変な難産だったとか。

草野:そうだったんです。母は何度も私を流産しそうになり、なかなか難しかったみたいですが、なんとか臨月までこぎつけたんです。けれども、妊娠中毒症になって状態が悪くて、出血が酷く、血液をどんどん飛行機で送ってもらって輸血するような状態でした。「もう、お子さん諦めてください」って言われていて。もう危篤ということで、みんな病院に集まったらしいです。私もまさか助かると思われていなくて、まぁ、奇跡的に二人ともなんとか命を長らえたという。もう、みんな本当に泣いて集まっていたらしいんです。

一同:へ〜。

川浪:お子さんを取るかお母さんを取るかではなく、両方とも危ないって言われて。

草野:そうなんです。何度も母は言われていたらしいです。「上に二人いるのにどうして自分の命を懸けてまで。産まないっていう選択肢もあるんですよ」って。けど、父もすごく欲しがったみたいで、結果的によかったんですけれど。母は輸血の量が多かったので、それで血清肝炎になって、そのまま1年間入院したんですね。私も半年間一緒に病院でお世話になって。今だったら駄目なんでしょうけど、先生とかが代わる代わるあやしてくれたらしいです(笑)。

川浪:お母様と末っ子の赤ちゃんが1年後に帰ってきた時は、みんな嬉しかったでしょうね。

草野:姉と兄は母の姉のところに預けられていて、やっと1年後に家族がみんな揃ったという状態に(笑)。

小勝:じゃあ、身体が弱いお子さんだったんですか?子どもの頃。

草野:小さくは産まれたんですけども、未熟児ではなかったんですね。ギリギリ2,500gぐらいあって。4月生まれだったので、気候がいいから大丈夫だろうということで保育器に入ることもありませんでした。それからは比較的元気に、特に内臓が悪いこともなくて。

川浪:元気なお子さんだったそうですが、3歳で交通事故に遭って、ずっと病院と縁の切れない一面もあったんですよね。

草野:えぇ、1歳で自宅に戻ってきたんですけど2年後に、3歳のときに大きな交通事故に遭って。命を落とすくらいの大きな事故だったんですけれども、これもまたなんとか助かることができました。ご近所の方というか、ちょっと離れた所の方は、トラックに3歳の子が轢かれた事故だったんで、「草野さんちの一番下の子は残念だったね」っていう話になっていたりして(笑)。

川浪:入院が長かったし。

草野:えぇ、帰って来ないしで、大きくなって会ったときに、「まぁ、よかった!生きてたのね!」って言われたことがありましたけど(笑)。

小勝:でも逆にいえば、すごく運の強い方ですね。

川浪:産まれた時もだし。

草野:そうですね、3歳の時の大きな事故の後もずっと整形と形成の外科治療があったもんですから、2年ぐらいずっと病院に入院している状態。たぶんお正月とかは帰ったりはしていたみたいなんですけど。幼稚園には3歳の時、年少さんで最初に入園して、9月までしか幼稚園に行ってなくて、それで2年間入院していましたので、年長さんぐらいでまた幼稚園に行けたかなというような感じでしたね。
幼稚園に行っても小学校に行っても、それから10年ぐらいは休みの度に入院しました。複雑骨折が酷かったのと、外傷もかなり酷かった、それを少しでも綺麗にするために。どんどん成長してくる骨と成長しない骨があるから左手の形がいびつになってきたり、動きが悪くなったりするもんですから、その都度、年齢に応じて手術をしないといけなくて。今もこのぐらい違うんですよ。(*左右の腕を伸ばして長さを比べて見せる仕草)

一同:へ〜。

草野:こっち側(左腕の内側)がけっこう酷くてここまでぜんぶ裂けてるような状態で、ずたずただったらしいです。左手首も粉々だったので、えっと今はもうだいぶ良くなっているんですけど、親指にあんまり力がなくてよく動かないんです。だから今も物を取るときはこうやって(左手の人差し指と中指で)取ることが多いですね(笑)。人差し指と中指が一番強くて、あとはちょっと。こっちの骨は残って成長していたんですね。で、親指側が全然伸びないからどんどん、どんどんこういう手になっていって。
小学校の時は本当に手が90度ぐらいに曲がってたので、なかなか。それでも痛みっていうのはそんなになかったんですね。ま、最初は痛んでたと思いますけど、とりあえず骨がある程度固まってからは痛みはなかったのでふつうに運動もしていたし、どちらかというと、お転婆さんだったので(笑)。

一同:おぉ。

草野:走ったりするのが好きで、木登りもしてたし。どちらかというと、人よりもいろんなことにチャレンジしてました。逆立ちも手の長さが違うんで難しいんですけど、指二本をこうやって上手に使って(笑)。

一同:(驚きの笑)。

小勝:すごいですね〜。

草野:だから全然不自由は私的には感じなくて。正常な状態を覚えてないので、それが私にとっての正常なので。片腕がない方とかも、上手に使い方を覚えるじゃないですか、生活のために。

川浪:小さかったからそういう適応もできたと言えるかも。

草野:そうですね。だからそんなに不自由は感じたことがなかったんですけども、ただやっぱり成長とともにどんどん形が変わるのと、その治療で母がすごく…。やっぱり3歳の子が事故に遭った場合、母親が一番辛かったと思うんですよね。仕事が忙しかった自分のせいだと。ちょうどお客さんがたくさんみえている時で、いつもならちゃんと母の許可をもらわないといけなかったんですけども、珍しく近くの年上のお友達が誘いに来てくれて、お菓子を一緒に買いに行ってしまった。
お客さんと母親が話終わる時っていうか、隙を突いてと思って待ってたんだけどなかなか終わらなくて。近かったからさっと行ってさっと帰ってくればいいって思っちゃったんですよね。それをすごく覚えているんですよ。テーブルにあった20円を勝手にとって、これも後で言えばいいと思って(笑)。それより前のことはあまり覚えてないんですけど、そこはよく覚えてます。

金:一緒に行った年上のお子さんは怪我しなかったんですか?

草野:そうなんです。私が一番ちっちゃかったので、たぶんついていけなくて。みんな走って通れる、車が来てても。まぁ子どもって猫みたいに行くじゃないですか。たぶんスタートが遅かったのと、みんなが行ってしまったから追っかけて行ったんでしょうね。

小勝:子どもね〜トラックから見えにくいんでしょうね。

草野:なんとなく覚えてるのは、自分の身体が飛んでいくっていうか、身体じゃなくって栓抜きが(笑)。お客さんがみえてて、たぶんビールか何かをお母さんが出してたのかな。9月ぐらいでまだ暑くて。それで大きな栓抜きが家にあったんですね、このぐらいの。昔ありましたよね、大きな栓抜きって。あれを取りに行くと「よく気が利く子だね〜」と喜ばれたりして、持って行ったりしてたので。なんかその栓抜きを最後に見たのかもしないんですけども。空中に栓抜きがこう飛ぶのを(笑)覚えているんです。でも実際にはそんなことはないので。

川浪:3歳ですもん…。

草野:たぶん身体が跳んだのかなとか、思ったりもして。

小勝:なるほどね〜。

草野:それこそ「2001年宇宙の旅」*みたいにこう、骨が跳ぶシーンがあるじゃないですか。
[*2001年宇宙の旅=1968年にスタンリー・キューブリックが製作・監督した叙事詩的SF映画。脚本はキューブリックとアーサー・C・クラーク]

小勝:はい、はい。

草野:あんな感じでこう宙をくるくる回っているのがなんとなく変に覚えているんですよね。まぁ、現実じゃないですけど。

川浪:不自由な病院生活ではどんな遊びを?やっぱり絵をよく描いていたんですか?

草野:そうですね、何か物を作るのは好きで。身の周りにあるものでちょこちょことお花を作ったりとか、動物を作ったりして。母に見せると喜んで棚とかに飾ってくれたりするんで、そういうことをよくしていたものですから。
入院しているときは手のリハビリも兼ねて、粘土とかいろんな物を与えてくれたので、絵も描いていました。することがないんです。外科に行ってもこんなちっちゃい子があんまり入院していることはないんでお友達もあんまりいなくて、大人ばっかりの中だったので、それでまぁ一人遊びが多かったですね。
以前、川浪さんにもお話ししたけど、動けなかったりすると特にですけど、病室はだいたい四角いじゃないですか、真っ白い四角い部屋でずっと見るものっていうと壁の表面。見てると起伏が少しあったりとか、塗料の塗り重ねがあったりとか微妙なディテールが影になって陰影ができたりとか、そんな細かいのをよく見ていました。だから大きくなってもなんとなくそういう物を見るとすごく懐かしくて。たぶん好きなディテールっていうのは、こう少し起伏があって陰影があってっていうような…。

小勝:うん、うん。

川浪:後の作品につながるような気が。そして、お父様をわりと早くに亡くされていますね。

草野:父は56歳で亡くなりまして、私は一番遅い子だったので18歳の時です。高校のちょうど受験の前というか、父が亡くなったのが11月17日、入院したのが9月だったので2カ月半ぐらいの入院。末期癌だったんですね、すでに。ただ、肝臓癌だったのでなかなかわからなくて、骨の転移から見つかって。あまりにも痛がるもんでおかしいって。ただ人間ドックも1カ月前に行ってたんですよ。それでも見つかってなくって。

小勝:え〜。

草野:で、骨がこうちょっと飛び出してきて。この辺りをいつも触ってなんかおかしい、おかしいって言って。精密検査したらもう末期の癌で骨に転移している状態だったんですね。

川浪:ちょうどその時って、草野さんは美大受験を控えて勉強している真っ最中だったじゃないですか。少し戻って、いつ頃から美術を意識して、美術の道を進もうと思うようになったのか、その時にお父様やご家族がどんなふうに応援してくれたのか、その辺りも教えてもらいたいんですけど。

草野:小さいときから「絵描きさんになりたい」っていうのは小学校の文集かなんかに書いているんです。絵描きさんか、外国の絵本の翻訳者。英語が好きだったんですね。「翻訳者になりたい」とかそんなことを書いていて。だからまぁ、絵描きさんではなかったけども美術をやっているってことは、夢は叶っているんです。だんだん大きくなると、絵描きじゃ食べれないしなとか(笑)いろいろ考えつつも、でもやっぱり好きなものに対してしか努力ができないというか、そんなに勤勉でもなかったので、「本当にやりたいことにしか、ものすごく時間をかけてできない」って思って、高校に入った時に美大に行こうって思いました。
直方には「阿部塾」*っていう画塾が昔からあったんです。今でいう研究所といった雰囲気とはちょっと違っていて、画家の先生とお弟子さんがいて、美術を志している子たちが集まってくるような、なんかアットホームな場所だったんです。
[*阿部塾=福岡県直方市の洋画家・阿部平臣(1920-2006)が主宰する、美大受験生を対象にした画塾。指導力に定評があり、筑豊地区のみならず北九州方面からも多くの生徒が集まった]

川浪:高1から高3まで通った?

草野:はい。

川浪:阿部平臣さんの塾ってすごく有名で、この塾出身の現代美術家をたくさん輩出しましたよね。すごくユニークな教育をしていたとか。ただ私が尋ねた作家はみな男性でしたが。絵を描くだけでなく畑仕事も一緒にしたとか?

草野:しましたよ、私もしました、茶摘みとか。茶摘みして、おばあちゃんというか先生の奥様と一緒にお茶の葉をみんなで、なんていうんですか、揉むっていうんですかね、干したりしたし。それから畑も作っていたんで、肥えも汲んで。

川浪:肥汲みはみんなしたって、男性の作家たちも言っていました。

小勝・金:ほ〜。

草野:当番があって。トイレ掃除も。

川浪:絵の勉強しながらも、「今日はやるぞ!」っていう感じで(野外作業に)連れ出されるんですか?

草野:夏休みとかはみんな朝からず〜っと塾にいるから。朝早く来てお弁当食べて夕方までいるから。で、毎日いろんなイベントがあるんですよ(笑)。

一同:(笑)

金:本当に個性的な。

川浪:圧倒的に男性が多かったんでしょ?美大受験する人たちは。

草野:多かったですね。でも女性も、ちらほら。

小勝:何人ぐらいいたんですか?

金:どれぐらいの規模だったんですか?

草野:一番多いときで…。浪人生は毎日来ているんで、現役生が土日だけとかいう日もあるので、私もずっとそうだったんですが、3年生になるまでは土日だけでしたので、全員がわ〜と揃うと、2〜30人、30人くらいかな?
すごく光の綺麗なアトリエ、阿部先生が支援者に建てていただいたという立派な、床が木煉瓦のアトリエ。吹き抜けの高〜いところに大きな窓があって、光がそこからしか入らないんですよ。だから石膏像がすごく綺麗に見えて。

一同:へ〜。

草野:しかも朝日の時に見るとすごく綺麗だから、先輩にいろいろ批評会できついこと言われて落ち込だりすると、「よし、じゃあ明日は朝一番の電車で行って、朝の光で見て描こう」とかね、そういうことをけっこうみんな純粋に(笑)、やってましたね。

小勝:家からどれぐらいかかったんですか?

草野:遠かったですね。1時間半ぐらいかかりました。折尾までバスで30分、それから筑豊電鉄に乗って、田園の中をず〜っと、牛なんかが放牧してあるようなところを(笑)、ず〜っと電車で。

川浪:それほど美術大学に行きたかったってことですか?

草野:そうですね。(画塾が)そこしか近いところがなくって。そこに行かないと何からやっていいかわからない。美大受験ってどうやっていいかっていうのもわからないし情報がなくて。実際は彫刻科に行ったんですけど、美術をやるっていうと絵描きさんっていうぐらいしか、みんな頭に浮かばないような時代でしたし。

川浪:そうすると、多摩美術大学の彫刻科を選んだきっかけも阿部塾ですか?

草野:そうですね。ひょっとしたら絵画に行ってたかもしれないんですね。と言うのも油絵の方は受験で実際に失敗してるんです。阿部塾は武蔵美の油画を受験する人がほとんどで、彫刻科は少なくて。私はちょうど受験の時に父を亡くしたので、それこそ、(受験準備のために)油絵をやり始める時期に、1枚だけ途中まで描いてあとはずっと休んじゃってたんですね。父が2カ月少し病院で闘病していた時に、ずっと父の側にいたくてほぼ休んでしまって。学校も休んでいたんですが(笑)。それで、絵もあまり描いてなくって。
阿部塾のやり方では、3年間のうち2年半はずっとデッサンをするんです。残りの半年で油絵を描くというのがあって、本当に最後の方になったら1日1枚、受験本番通りに4時間、8時間で描くとかそういうやり方をするので枚数がだんだん増えてくるんです。最初は1カ月で1枚とか、2週間で1枚とかで描くんです。
最初の頃はみんなよりスタートが遅れてしまって。
そういう頃に、受験の油絵って、なんとなくルールみたいなものがあって、ちょっと違うことをすると、「今頃こんなことをすると落っこちちゃうよ」、「素直に描きなさい」とか言われている先輩がいたりして、好きな作家の作品にちょっとインスパイアされてちょっと自分もやってみようかとか変わったことをやると、咎められるんじゃないですけど、「今頃こんなことやってどうするの」みたいになる。実際、受験はそういうところがあるから、好きなことやりたくて絵を描きたかったはずなのに、なんでこうなんだろうなって思うところは少しありました。
で、彫刻科を受ける先輩が一人、二人いたんですね。彫刻を指導する先生はいなかったので、比較的自由で楽しそうだったんですね、その先輩たちが。ちょっと粘土いじってたりしているのがなんかいいなと思って。デッサンだけで受けられる科だったんですよね、多摩美の彫刻科は。人体デッサンだけで受けられる。でも人体デッサンはやったことなかったんです。ず〜っと石膏を描いていましたから。父が亡くなった後にまた、12月ぐらいからかな、塾に行くようになった時に人物画を何回か描いて、ちょっと面白いなと思って。それでまぁ彫刻科でも、「でもいいや」って言うとおかしいですけど、「彫刻科に入るのも悪くないな」っていう気持ちになりました。実際、絵画科も受けていたので、そちらに受かっていたらそちらに行ってたかもしれないです。

金:両方受けられたんですか?

草野:そうです。武蔵美と多摩美を受けました。

川浪:多摩美が彫刻を受けて。

小勝:武蔵美が油絵を受けて。

草野:そうです。

川浪:藝大も?

草野:藝大も油絵を受けました。当時は造形(東京造形大学)の彫刻に、忠良先生(佐藤忠良)がいて、彫刻はいいって言われていて。多摩美も舟越先生(舟越保武)がいらしてたんですけどね。造形の彫刻を受ける先輩もいたりしたんです。

小勝:造形は受けられなかった?

草野:造形は受けなかったです。多摩美はなんとなくデッサンとかを見て、かっこいいと思っていたんです。

小勝:すみません、そもそもに戻るんですが、そういう美大受験をご両親はどうおっしゃってたんですか?

草野:えっとですね、最初は反対されました。上の二人も普通の大学でしたし、高校が受験校だったものですから、「なんでわざわざ受験校に入ったのに美大に行くんだ」と。

金:東京の美大しか念頭に置かれていなかったんですか?

草野:そうですね。あまり知らなくって。たまたま阿部塾に行ったら、阿部塾生がほとんど武蔵美志望だったので、そのイメージしかなかったんですよね。

小勝:元に戻りますが、ご両親の反対をどのように跳ね除けることが、というか説得することができたんですか?

草野:えっとですね…、とはいえ、やりたいことは、うん。

小勝:やっぱり末っ子の愛されたお嬢さんだったので…

草野:うん、そうですね。

川浪:受験直前にお父様を亡くされて、それでも東京に行っていいと許可がでるというのは、そうとうご家族の理解がないと…。

草野:それは兄と姉が強く言って行かせてくれた。

一同:あぁ。

草野:父はすごく封建的(笑)。やっぱり大正生まれでしたから。昭和元年、大正15年なんですけど、「女はそんな勉強なんかしなくていい」というような人だったんです。だから姉はすごく成績が良くて、私なんかよりずっと賢かった。その姉にも父は、「生意気になる」「理屈ばっかり言う」って、そういう言い方だったんです。でも私に対しては、一番下の末っ子ということもあってか少し甘くて。

小勝:なるほどね〜。

草野:私が美術、絵を描いたりするのが好き、まぁ、ちょっと不憫さもあったと思うんですね。絵をずっとひとりで描いていたりするから。だから「これからは女性も手に職がないと」って言い方を(笑)私にはしたから、なんか変だなって思ったんですけど。

金:自分の世界を持たせたかったみたいな。

草野:そうですね。

川浪:でも歳の離れたお兄さん、お姉さんの存在は心強いですね。

小勝:そうですよね。

草野:すごく兄と姉は応援してくれて。父が亡くなった時、私はもう「やっぱり東京まで行くのは諦めよう」って。これから先、父の会社もどうなるかわからないと思ったので、そういうふうに考えたんですけれども、兄が「諦めることないから」って言って行かせてくれて。

小勝:(会社は)お兄さんが継がれたわけではないんですか?

草野:兄が継ぎました。はい。兄は東京にいて、写真をやっていたんです、実は。

小勝:へぇ〜。

草野:カメラマンをやってて(笑)。最終的には家に戻るということは頭にあったと思うんですが、父が癌だってわかって、2週間で引っ越して帰ってきました。

小勝:わぁ、すごいですね。さすがですね。

草野:それで、「心配ないから」って言って行かせてくれたんです。

小勝:お姉さんはまだお家にいらしたんですか?

草野:はい。姉も東京の大学に行っていたんですけども、戻って来てこちらで就職していました。そのあともずっと母が寂しがっていたので、長く母のそばに姉がいてくれました。私が海外に行って長く家を空けることになった時も姉はずっと母のそばに。

川浪:会社はお母様と一緒に、お兄さんが引き継いだんですね?

草野:そうです。

小勝:あの、さっきの阿部塾に戻りますが、30人くらいの生徒の中で女性はどれぐらいだったんですか?

草野:10人ぐらいだったんじゃないかな〜。

小勝:10人くらい?3分の1くらい?

川浪:そんなにいらしたんですか。

小勝:けっこう多いですね。

草野:その時はいたように思います。というか、強い女性が多かったので(笑)そういうふうに感じたのかもしれない。

川浪:例えば、その後作家になった人は?

草野:オーギカナエさん、母里聖徳さん、岡山直之さんも!濃いでしょ(笑)。
面白い方いましたよ、先輩にも。ものすごく個性のある方いっぱいいて。

川浪・小勝:うんうん。

草野:舞踏とかを(笑)。アトリエの近くに小さな石橋があるんですけど、その上で踊っていた先輩がいたと聞きました

小勝:そういう時代でしたよ、きっとね。

草野:そうそう。おもしろかったですね。

川浪:なんでもやらせてくれたんですね。

草野:そう、なんでも、肥え汲みから何からですね(笑)。山登りからやってましたね。

【多摩美時代から、イギリス留学時代】
小勝:そんなおもしろい塾にいて、多摩美の彫刻科に入っていかがでしたか?期待された甲斐がありましたか?

草野:彫刻自体が何かも知らなかったので、その、やり方ですね。粘土ってこんなふうにするんだとか、芯材ってこんなふうに作るんだとかが新鮮で、ちょっと大工さんみたいなね。

小勝:舟越(保武)先生自らご指導いただいたんですか?

草野:そうですね。名誉教授でいらしたので、いつもではなくて。だいたい助手の方が。

小勝:助手の方というのは、どなた?

草野:3年になってコース選択が決まってからは、小泉俊己さんですね。

小勝:女性は、それこそまた、どれくらいいましたか?

草野:ぜんぜんいらっしゃらなかったです、その時は。

小勝:ゼロですか?

草野:女性の助手の方はいらっしゃらなかったと思います。全員男性だったと。

小勝:へ〜、なるほどねぇ。

草野:卒業間際に多分、女性の方が。大学院を出た方がそのまま助手やっていたみたいな感じだったんですけど、あんまり交流がなかったので。

川浪:素材別のコースに分かれた3年生からは、石井厚生さんが指導教授ですね。

草野:諸材料の石井先生。

川浪:諸材料って何ですか?

草野:ミクストメディアですね。

川浪:それ以外は木彫、石彫とか…。

草野:そうです、木彫と石彫と塑像、金属というのが今まで主だった。

小勝:それ以外の材料を?

草野:最初の2年間は基礎的なことをひと通りやるんです。木彫やったり石彫やったりというのをひと通りやって、塑像もやって、鋳造とかもやって。で、3年から選択で好きなものを選んでいくんです。

金:だいたい彫刻って女性が少ないって言われてましたが、どうでしたか?

草野:3分の1でした、やっぱり。30人の中の10名だったんですけど。いまは逆転しているそうです。

小勝:彫刻もですか。へ〜。

草野:いま逆に9割が女性って言ってました(笑)。

金:芸大全体が。うち(沖縄県立芸大)は彫刻は女子が少ないと言われてますけど。

草野:特に現役生も少なかったんですよ。現役が5人ぐらいだったんじゃないかな、30人中。二浪、三浪、五浪…九浪って人もいたので(笑)。

一同:(笑)。

小勝:草野さんはそれで、現役だった?

草野:現役でしたね。現役生の女の子だからって、「何もできないだろう」みたいな感じで思われるので、だから余計こう、なんて言うんですかね、意地張って。

小勝:なるほど。

草野:石膏の袋なんかも、「全然平気です、大丈夫です」みたいな感じで運んで。「人の手は借りません」みたいな感じでやってましたね。

小勝:でも、大事にされた末っ子のお嬢様がこういきなり東京一人暮らしで。最初、寂しいとかそういうのはなかったんですか?

草野:いや、すごく楽しかったですね(笑)。

一同:(賛同の)ふ〜ん

草野:田舎で窮屈な感じの町でしたし、遠くへ行きたい、行きたいってずっと思っていたんですね。できたら本当に高校から海外に行きたかったって思うぐらい。英語も好きだったので、海外に行きたいって本当に思ってましたね。

小勝:それで、多摩美の後はロンドンに出られるんですね。

川浪:ロンドンを選ばれた、目指されたきっかけは?

草野:やっぱり英語圏じゃないとなかなか難しいだろうと思ったんですね。いろいろ作品の話をするにしても。で、アメリカかイギリスかなと思ったときに、最初はやっぱりニューヨークかなって思って、ニューヨークのことを調べていたんですけど、物価も高かったし。まぁイギリスも、ロンドンも高いんですけども。それと、ちょうどイギリスの作家の特集なんかもよくやってたんですね、当時の美手帖(『美術手帖』)は(笑)。

小勝:そうですね。都美術館とかでもやりましたよね、「今日のイギリス美術」展*とかその辺りですよね。私がいた美術館にも巡回、一緒にやったみたいなんですが。ちょっと私はまだ、さすがに学芸員じゃなかったんですけれども。
[*今日のイギリス美術展=1982年に東京都美術館、栃木県立美術館、国立国際美術館、福岡市美術館、北海道立近代美術館で巡回開催。70年代を代表するアーティストまで幅広くイギリスの現代美術を紹介し、当時日本の美術界に大きな影響を与えた]

川浪:やっぱりイギリスの作家が好きだった?

草野:見たときに、あぁ、おもしろい、イギリスの作家おもしろいなぁって。

小勝:たとえばどういう作家ですか?

草野:そのときちょうど(『美術手帖』で)特集をやってたのがランドスケープとか、アンディ・ゴールズワージー*とか…
[*アンディー・ゴールズワージー Andy Gauldsworthy(1956- )=イギリスの美術家、写真家。自然物を素材に制作]

小勝:ゴールズワージー!なるほど、なるほど。

草野:あとリチャード・ロング*。実は本人に会ったんです!イギリスで。偶然会ったんです、歩いてるところを。化石を掘りに行ったときに。イギリスは化石掘りが有名で面白くって。
[*リチャード・ロング Richard Long(1945- )=イギリスの彫刻家、ランド・アートの美術家]

金:有名ですよね。

草野: fossilingって言うんですけどね。で、たまたま途中で車停めて入った八百屋さんに背の高い人がいて、野菜を持ってて。友だちも一緒にいたんですけど、「あれって、ロングじゃない?」って話になって。それで話しかけて、「私たち学生なんです、美術の学生なんです」って。写真撮ってもらいました、一緒に(笑)。

小勝:すばらしい。写真残ってます?

草野:えぇ、残ってます。その頃、ハミッシュ・フルトンとかも、なんか歩くことっていう…。

小勝:えぇ、えぇ、そうですよね。ああいう、なんかこう自然と、イギリスの作家の中でこう自然と一緒に創作するというか、そういうタイプの作品多かったですよね。ゴールズワージーはそれこそ栃木県に来て滞在制作していたんです。私は2回目のときに、84年に美術館に入ってるんで、(ナッシュの)2回目の滞在制作のときにはちょっとだけ見せていただいたんですけども。

川浪:「今日のイギリス美術」展では、デイヴィッド・ナッシュ*が長く日本に滞在したり、いろいろありましたねえ。
[*デイヴィッド・ナッシュ David Nash(1945- )=イギリスの彫刻家。自然木を用いて制作]

小勝:あぁ、そうか。そうでしたね、ナッシュの方でした、私が最初に会ったのは。ゴールズワージーもそう(栃木県で滞在制作した)なんですけども、はい。

川浪:そのまま大学院に進学するんじゃなく海外に出るというのは、かなりはっきりと草野さんの気持ちの中にあったのですね。

草野:ありましたね、大学に入ったときから、たぶん。とにかく福岡から東京まで来て、なんか「もっともっと遠くに行きたい」って思ってたんです。なんでだろう?

川浪:今はたくさんの方が海外で学んでいますが、福岡においては大学院に進学する作家もそう多くない時代に海外に出たっていうのは、草野さんがほぼ最初じゃないかなと。しかも全部個人でapplyしてるんですよね?推薦を受けたりとか紹介を受けたりとかじゃなく。

草野:どうしていいかわからなかったんで。そういう方法もあったんですよね.その後ですけども、ほかの学校からはそういうルートで来るのがあると。私の頃は学生が来る例は少なかった。ほとんど先生、大学の教授がそういう方法でロイヤルカレッジ(Royal College of Art)に来ていたり。実際、スレード(Slade School of Fine Art)にきている大学の教授もいました。

川浪:福岡教育大学の阿部守*さんも同時期でしたか?
[*阿部守 (1954- )=鉄の彫刻家。1984-2018年まで福岡教育大学で教え、環境造形も多く手がける。同大名誉教授、東京在住]

草野:はい、ロイヤルカレッジに。で、チェルシー(Chelsea College of Arts)には土屋公雄さん。

小勝:それは、あの、内田あぐりさんが行ってた、あれは文化庁か。文化庁とは別に、大学から行く枠があるんですか?

川浪:うん、うん。

小勝:へぇ〜。試験とかもあったんですか?

草野:飯田橋のブリティッシュ・カウンシルにず〜っと通って、調べて。最初は大学院じゃなかったんですよ。大学院っていうのはちょっとハードル高いだろうと思ったので、ポリテクニックとか、そういう専門学校的なところでもいいと思っていろいろ調べていたんですけど、どうも大学院もapplyできるんじゃないかって、思いまして。

金:多摩美、ちゃんと卒業されていらっしゃるし。

草野:BA(Bachelor of Arts)は出てるからってことで。それでブリティッシュ・カウンシルの人に相談して、資料を集めて、とにかく全部applyしてみようって。どうせ資料作るのは同じだからって。
これもそのときに作ったポジ資料の一つ。当時はポジで送らないといけなかったんで。

川浪:多摩美の卒業制作を資料としたわけですね。

草野:そうです、そうです。

小勝:これは何で作ったんですか?

草野:セメントで直径が1m20ぐらいあるお椀みたいな形です。ちょっと傾いた大きなお椀で、内側に鉛が貼ってあるんです。
<参考図版>01. 《mothers womb》 1988年/ロンドン

川浪:これは私も初めて見ます。

草野:これはすごく大きかったんですけど、サイズ感がひょっとしたらわからないかも。ちゃんと書いてあるんで、データとして入れているんですけど。

川浪:真ん中に乗っている小さいオブジェは、蝋型鋳造で作った?

草野:魚なんです、身体が曲がった魚、古代魚みたいな感じの。

川浪:なんか鳥みたい。で、その蝋型鋳造で初めて蜜蝋を使った?

草野:そうなんです。

小勝:なるほど。すごい、すごい。へぇ〜。それで、何校も受けられたわけですか?

草野:そうですね、幾つか受けました。大学院だけの学校でチェルシースクールというところがあって、いいなと思って一応受けたんですけど、土屋公雄さんがいるっていうことで(笑)。で、スレードとゴールドスミス(Goldsmiths College、現Goldsmiths, University of London)とセントラル・セントマーチン(Central Saint Martins College of Art、現Central Saint Martins University of the Arts London)。

川浪:その3校から返事がきたと。

草野:そうですね。その3校から、来てもいいよっていうような。

小勝:すごいですね。

草野:返事をいただいたんですけど、ただスレード以外はBAだったんですね。MA(Master of Arts)がなくて。セントラル・セントマーチンもMAないところで、そこなら来ていいよって。でも、ゴールドスミスはセラミックで。これ(*参考図版(1))を出したらなぜか「セラミックだったら来ていいよ」って言われたんです。これがお椀に見えたのかな?

小勝:(笑)。なるほどね〜。その後、日本人、けっこうロンドンに(留学に)行くけど、ゴールドスミスが多いですよね。

金:多いですよね。あのころはけっこう留学多かったんじゃない?韓国からもすごく多かったですよ。今も多いですけど。

小勝:なるほど。

草野:ゴールドスミスってすごくコンセプチャルなんですよ。絵画もですが、彫刻は特に。だからこういう形状(椀形)だったので、たぶんそれでセラミックという話になったのかもしれない。タン・ダウもゴールドスミスでした。

川浪:で、必然的にスレードになったと。

草野:そうなんです。スレードは一応大学院だったので、「英語がどれぐらいできるかわからないし、それができないと話になんないからとにかく面接においで」と言われたんです。そんな気軽に言うなと思いましたけど。

一同:(笑)。

草野:まだはっきりと合格とは言われないけど、「まず面接にいらっしゃい」って言われたので面接に行って。面接に行ったら大学院の学生とチューター、教授がいる前で、自分の作品を説明するっていうのが面接だったんです。けっこういろいろと質問を受けて、一応それで「来ていいよ」っていう話になって。

小勝:すごい。

川浪:すばらしい!

金:韓国からはすごく多くなっていた時代でも、日本からはまだそう多くはなかったんでしょう?

草野:そんなに多くはなかったですね。でもデザイン科、ロイヤルカレッジのグラフィックにはいました。日本人の女性、京都の方でしたね。で仲良しに。やっぱり日本人少ないんで、美大にいってるみんなが知り合いになるんですよね。周りも紹介してくださる。日本人いるからって、周りの方が。それでいろんな日本人とあちらで会いました。
あと、AA Schoolっていう建築の学校があるんですよ、当時一番とんがってた。コンセプトで建てる、理論で家を建てるみたいな(笑)。

川浪:そこも日本人の学生が多かった?

草野:多かったです。流行ってて、すごく日本人がたくさん。で、多摩美からも知ってる子が来てて。AA Schoolはスレードのすぐそばにあったんです。
あと、ファッションにもいたな。セント・マーチンズはすごくファッションが有名で、そこにすごく優秀な男の子がいましたね、のちにデザイナーになった。

川浪:そのときに出会った寺内曜子*さんとは、今も親しいとか。
[*寺内曜子 (1954- )=1979〜98年までロンドンを拠点に活動し、世界認識の限界を体験する場としてのインスタレーションを制作。愛知県立芸術大学名誉教授、東京在住]

草野:えぇ、すごくお世話になりました。寺内曜子さんはセント・マーチンズを卒業されていて、もう一人、佐藤容子さんっていうアーティストの方も卒業生にいらしたんですね。写真をされています。東京にいらっしゃるんですけども。ほかにも、ヘイワード・ギャラリーの展覧会でセレクトされていたKumiko Shimizuさんも紹介してくれて、日本人ソサエティじゃないけれど、集まってみんなで食事したこともあって。寺内さんは中でも活躍されてて、ヴィクトリア・ミロ・ギャラリーっていうギャラリーの作家でした。

小勝:あぁ、そうですか。年齢的には少し上ですか?

草野:そうですね。現在は東京にお住まいで、豊田市美でも個展を。(「寺内曜子 パンゲア」展 2021年 豊田市美術館)

小勝:あぁ、そうですか。

草野:すごくいい作品で。私もFacebookでシェアさせてもらっていますが、2022年にドイツでも展覧会されていました。すごく影響を受けた、というかコンセプトが明快で、豊田市美での講演会もとても興味深かったんです。

川浪:寺内さんのどんなところに惹かれたり、学んだりしたんですか? 女性アーティストとしての生き方や素材の使い方やコンセプト? 今の草野さんにどんなふうにつながっていったのかなって。

草野:そうですね、すごくサイト・スペシフィックな作品なんです。線や色面を使った空間そのものを通して、今自分が認識している事が、いかに一面的であるか・・・。
初めてインスタレーションを見た時は、その時の私の心境にも重ねて見ていました。今見ているものがすべてじゃなくて、認識できていない場所があり、これは世界の一部でしか過ぎないということが、感覚としてすっと入ってくるような作品でもあった。イギリス時代もそうでしたが、豊田市美術館の講演で改めて話を聞いていてとてもおもしろかったんです。

川浪:その当時、草野さん自身はどんな作品を作ってました? 時代がニュー・スカルプチュアの時代でもあるし。ブルース・マクレーン*が先生だったとか。
[*ブルース・マクレーン Bruce Maclean(1944- )=イギリスの彫刻家]

草野:ブルース・マクレーン、それからエドワード・アーリントン*がいたんです。アーリントンとは、私の(留学時期の)最後の方だったんで直接あまり話できなかったんですけども。私的には、その中ではやっぱり女性の作家がおもしろかったですね。二人いたんですけども。
[*エドワード・アーリントン Edward Allington(1951-2017)=イギリスの彫刻家]

川浪:へぇ〜。

草野:アリソン・ワイルディング*、それとフィリダですね、フィリダ・バーロウ*。最近、え〜っとなんでしたっけ、70代以上の女性ばっかりの展覧会に出ていました。(「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」 2021-2022年 森美術館)
[*アリソン・ワイルディング Alison Wilding(1948- )=イギリスの彫刻家]
[*フィリダ・バーロウ Phyllida Barlow(1944- )=イギリスの彫刻家。身近な環境からインスピレーションを得たエネルギッシュで遊び心あふれるダイナミックな作品で知られる]

小勝:そうですか。(「アナザーエナジー」展のカタログを)見てみます。

草野:彼女(フィリダ・バーロウ)については、寺内曜子さんとも話しました。(寺内さんは)私にもそう言って励ましてくれるんだけど、それこそ評価されるのが遅くて。60歳過ぎてから評価されてきた作家です。

小勝:そうそう、イギリスの作家。そうでしたね。

川浪:あの企画(「アナザーエナジー」展)がそういうテーマでしたね。

草野:彼女はずっと先生をやっていて。

小勝:スレード校で教えられていたんですか?

草野:そうです。私がいたときに話をよくさせてもらったけど、彼女はすごく真摯な感じで真剣に話を聞いてくれたので印象深いんですね。当時はアリソン・ワイルディングというもう一人の女性の作家も教えていて、展覧会で評価されていたと思います。フィリダの作品は実際にはあまり見ることがなかったんです。後からそうやってメキメキ出てきたって聞いて、なんか嬉しい気分になって(笑)。教職を辞めてから、エネルギッシュにやってる、いい作家だよって、寺内さんも言ってて。

小勝:なるほど。そういう女性のロールモデル的な先輩の寺内さんやフィリダさんにお会いになったということですけど、本人はいわゆる私費留学ですよね。それはご実家からきちんと送金されて?

草野:はい。

川浪:仕送りですね。

小勝:じゃあ、アルバイトとかする必要はなかった?

草野:してましたね、やっぱり。すねかじりでしたけど。

小勝:そういう場面ではアジア人女性として差別的な目に合うようなことは?

草野:それはありましたね。それはもう当然のように。アジア人だっていうのもそうだし、女性だっていうのもそうだし。石を投げられたこともあります。田舎に行けば行くほど。

小勝:そうでしょうねぇ。

草野:ロンドンの中っていうのはそうではないけども、最初は郊外に住んでいたんで、子どもが…。たぶん東洋人全体に対して、ほかの呼び方をされたりとかもされたし、子どもに石投げられた時はさすがに凹みましたけどね(笑)。

小勝:そういう中で、ロンドンではフェミニズムとかそういう女性の権利とか思想的なことには直接触れたりはしませんでしたか?

草野:そうですね、なんかこう女性がすごくしっかりしていましたね、全般的に。特に知っているアーティストの方たちは非常に自立というか、気持ちが強くて男性よりぜんぜん強かったので(笑)。特別な、何かにプロテストしているっていうか訴えているという状況よりも、なんか堂々としているというイメージの方が。

小勝:実際にやるべきことをやっているという感じですか?

草野:という感じですね。

小勝:教育者として、アーティストとして?

草野:えぇ。

小勝:ただそのフィリダさんが長い間認められなかったっていうのはどういうことなんでしょうか?

草野:そうですねぇ、その時私はそこまで深くは考えていなかったですね。それは女性だからというわけではなくて、たまたま彼女のそういう時期なのであって。もう一人の女性の作家のアリソンは、周りから「最近よく展覧会に出しているよね」とかいう話を聞いていたので、やっぱりいろいろ人には時期があるんだろうなという風に思っていました。
大学院の彫刻科では、私の学年は女性は私だけで。次の学年は女性が多かったですけども。そういえば、最初に写真撮ったときに「私一人だな」って。大学院の学生は8人だったんですが、8人のうち女性は1人だけで、後から中国からちょっと歳上の、あちらで教職に就いているって方が途中からいらして女性2人になったけど、最初に入学したときは私1人でしたね。

小勝:特に女性だからと差別的に扱われるってことは、大学ではなかったということですか?

草野:おそらく。私が鈍くて感じてなかったかもしれない(笑)。しかも、ちっちゃかったから。周りはだいたい大きいし、なんか子ども扱いされている感じはありました。英語も上手ではないし。カナダ人の留学生の男性が一人いて、その子が一番親切でした。彼はとても日本をリスペクトしてくれてたんですね、小津安二郎が好きだとか。

小勝:なるほどね、そういうタイプだ(笑)。

金:その時代はね、ちょうど日本の映画とか。80年代半ば以降。

草野:だから日本語を覚えたいとか言って。語学がすごく堪能。ケベックってフランス語が母国語だけど、英語もすごく上手だった。日本語も教えたらすごい喜んで(笑)。彼と一番仲良かったかな。

小勝:その人とはもう交流はないんですか?

草野:そうですね、今はないんですよね。途中ちょっとお手紙でのやり取りとかあったんですよね、「日本に来たら」って言ってたんですけど、ちょうど子ども産んだぐらいからなんかもうそういうことができないような気がして。その頃の友人とももう会えないような気がして。イギリスにも行けないような。だからずっと行ってなくて。行けないような気がして、なんとなくちょっと遠ざけていたかもしれないですね、自分も。

小勝:このイギリス時代っていうのがやっぱり、これからアーティストとしてやっていくんだみたいな、そういう基礎みたいなものを掴んだ?手応えみたいな…。

草野:実際にイギリスに行って、「もっと武器を持っていくべきだった」って思ったんです。武器っていうのは、私はとにかく「早く行きたい、早く外に出たい」と思ったけれども、「もっと学んでいくべきだった」って。哲学的な会話にしても、英語で論破できるほどの語学力もないし、それに自分自身ができてない。だから、もっと全般的に。

川浪:自分の作品とか作風とか。

小勝:以前に、人間としての基礎みたいな。

草野:そうです。あと、作品もそうです。自分の作品がはっきり見えてない状態だったので、闘うってことがすごく難しかった。

金:たとえば2年ちょっと経て、今おっしゃったように、いろいろ自分のコンセプトを深めながら、もうちょっと長くイギリスなりほかのヨーロッパにいる、そういうのは思われたりしなかったんですか。

草野:それは思っていたんですけども。

金:それでたまたま長くいる人もいますよね?そのつもりはなかったんだけど、ここまでいたとか。

草野:そうなんですよ、寺内さんもそうだし、佐藤容子さんって方も。みなさんその頃お付き合いしていた日本人の方はそう。

金:草野さんはそういうことをちょっと思ったりしなかったんですか?

草野:思いました。残れるなら残りたいなって。そう思っていた時にちょうど、すごくお世話になった伯母(父の姉)が、もう余命があまりないと連絡を受けて。
その伯母は、私が交通事故に遭ったときに皮膚移植をしてくれた、皮膚を提供してくれたんです。母は仕事で忙しいし、他の子どもたちもいるものですから、なかなか付き添えない。3歳ぐらいだとまだ入院に付き添いの必要な時期だったりして、そのときに伯母がずっと付き添ってくれました。それ以降も、忙しい家だったもんですから、伯母がよく母親代わりにしょっちゅうあちこちに。母と遊園地に行った覚えが一度もないんですけど、いつも伯母と(笑)。

金:あぁ、そういう。

草野:そういう存在だったので、そう聞いた時に「あぁ、帰らなきゃ」と思ったんです。学期は終わってて卒業式までには少し時間があったんですが、卒業式に出ないで、キャンセルして。後で卒業証書を送ってもらう形で早めに帰っちゃったんです。

金:そういう意味では、もっと武器を持っていくべきだったっておっしゃったんですけど、むしろそういう意識も含めていろいろ見えてきて、今後の展開が掴めてた時期ではあったと思います。そうだったんですね。それで戻られて。

川浪:伯母様の看取りには間に合いました?

草野:はい、間に合って。

小勝:よかったですね。

草野:だからその後再びイギリスに行くこともたぶんできたんだとは思うんですが、そのあと少しぼ〜っとしてしまったというか、家のこともあったりして。
母がもう家に一人でしたし。姉が結婚するって決まって、母が寂しがってたし。東京の大学4年間とイギリスの2年間と6年間家を離れていたので、母もちょっとそばにいてほしそうにしていたのでなんか動かないまま。
その時にIAF*とか福岡の美術関係者にお会いしました。
[*IAF=IAF芸術研究所(Institute of Art Function)の略。1975年に山野真悟が福岡市内で始めた版画教室とギャラリーが前身。80年代には企画展や現代美術研究会等を主催、県内外多くのアート関係者の交流の場となる。93年以降はMCP(ミュージアム・シティ・プロジェクト)の事務局を兼ねた。福岡の先駆的なオルタナティブスペース]

【帰国後、福岡での怒涛の90年代】
川浪:いろんな人たちの展覧会参加の求めが殺到した時期。

草野:ロンドンで出会った阿部守さんからも「福岡行ったらこの人に会ったらいいよ」って、山野真悟*さんたちのお名前をいただいてたんですね、それで戻ってからちょっとお話ししたりすると、展覧会の話とかがけっこう進んだりしたもんですから…。
[*山野真悟 (1950- )=70年代から美術家やIAF主宰者として福岡を拠点に活動。1990-2000年代にかけては「ミュージアム・シティ・プロジェクト」事務局長として、福岡の街とアートをテーマにしたプロジェクトを数多く手がける。2008年横浜に拠点を移し、黄金町エリアマネジメントセンター事務局長に就任]

金:それでこの目覚ましい活動が始まるという。

川浪:イギリスでもなく東京でもなく、でも福岡もわざわざ選んだ訳でもなく。

草野:そうなんです。

川浪:戻ってきたら、どんどん人から人へと紹介を受けて、活動の場が広がっていった。

草野:そうなんですよね。

川浪:今回(草野さんの)活動歴を作って、改めてこの時期、尋常ならぬ数のグループ展と個展をしていることに気づきました。わずか1年や2年の間に。

小勝:90年代、怒涛のようですね。

川浪:よく身体がもったなって。だって、それまで全く福岡で活動をしていないわけだから。

草野:そうなんですよ。

川浪:知り合いもいないわけですよね。

草野:だから最初の個展のときも「誰も来ないだろうな」って。DM出すにも誰に出していいかわからなくて、ひと通り美術館には出そうと、そのぐらいの感じでした。そうしたら山野さんが連れてきてくれたりして。当時、おもしろかったですよね。

川浪:90年に帰ってきて、翌年にはもう個展されてますよね。

小勝:当時はご実家に戻られたんですか?

草野:そうです、はい。

小勝:ご実家にいて、福岡で発表するってことですか。

草野:そうですね。まず福岡(市内)の天画廊っていう古い画廊を訪ねました。そこは戸谷成雄さんとかもやってて。

川浪:天画廊は、この頃の福岡では一番元気な現代美術画廊でした。今はもうないです、90年代に閉めてしまって。女性のギャラリストで。

小勝:あぁ、そうなんですか。

川浪:東京画廊とのつながりもあって、豊福知徳さん、高橋秀さん、菊畑茂久馬さんとかの個展もやりましたし、地元の若手作家たちのも。阿部守さんも個展やってました。

草野:阿部守さんがいらしてる時に、天画廊で(オーナーに)作品を見てもらったら、「やりましょう」って言っていただいて。
* データベースとのリンク→画像1《untitled》1991 年 https://asianw-art.com/kusano-kiyo/

小勝:それで東京に出よう、東京で活動しようとは思われなかったんですか?

草野:思わなかったこともなかったんですけども、それからばたばた展覧会が決まっていったので。私、本当に自分で切り拓いていったという感覚があまりないんですね。本当に、流されていったというような(笑)。

小勝:福岡の美術関係者から次々と、オファーがあったと。

草野:ありがたいことにあったので。それとちょうど「非常口」*とかもやってて。すごく活気があったんですよね、あの頃の福岡は。
[*「中国前衛美術家展 [非常口]」1991年 三菱地所アルティアム・香椎操車場跡地/企画:費大為、ミュージアム・シティ・プロジェクト/参加作家:蔡國強、楊杰昌、谷文達、黄永砅、王魯炎]

小勝:なるほどね。

草野:で、福岡も面白いんじゃないかって。それと、アトリエが東京では、なかなかですね。少なくとも実家にいれば、実家の倉庫を借りて作業ができていたので。少なくとも作品をつくるのは福岡でいいんじゃないかって思って。

小勝:なるほどね。あと、お母様とも暮らせるし。

川浪:私が企画した「七つの対話展」(「現代美術の展望-’94FUKUOKA 七つの対話」展1994年 福岡県立美術館)のカタログ年表(*1985年〜94年までの福岡のアートシーン史)を確認したら、彼女が個展を始めた頃は「ミュージアム・シティ・プロジェクト」*を始め、福岡のさまざな場所で、ものすごい密度とスピードで国内外の現代美術展が開かれてて、当時を知る私も改めてびっくりしました。
[*ミュージアム・シティ・プロジェクト=1990年から福岡市を拠点に現代美術に関わるプロジェクトを多数企画実施した非営利団体の名称であり、活動の総称。代表的な活動は90年から2004年にかけて隔年開催された、都市型アートプロジェクト「ミュージアム・シティ・天神(*98年からは福岡)」]

小勝:そうですか。

川浪:91年は「非常口」展以外にも、アンブレラ・プロジェクトで来日したクリストの講演会(福岡市美術館)や「ヤン・フートの眼」展(三菱地所アルティアム)、タン・ダウの個展(福岡市美術館)やCASSK(現代美術サマーセミナー・イン・北九州)、そして地元作家たちの大規模なグループ展もいくつも行われてて…(*カタログ年表を見ながら)。

小勝:その辺の立役者的な人は?

川浪:山野真悟さん、黒田雷児さん(当時 福岡市美術館学芸員)、宮本初音さんたち。

小勝:なるほどね。

草野:「非常口」っていう展覧会は、特にすごく面白かった。

川浪:アジア美術とのつながりは、やっぱり福岡が先鞭つけた部分が大きいので。

小勝:91年、アジ美(福岡アジア美術館)はまだできてないんですか?

川浪:まだですね(*1999年開館)。当時の福岡はあちこちで地元アーティストとアジアのアーティストたちとが直接出会って、「グループショーにおいでよ」といった交流が。その一つがあれですよね?

草野:タン・ダウ*の。ダウもシンガポールからちょうど福岡に来ていたんです。
ロンドンでの知り合いが共通していて、寺内さんのことも良くご存知だった。思い掛けずその話で盛り上がって、それで寺内さんを含むロンドン在住の日本人作家の展覧会がシンガポールであるというので見に行ったんです。
「アーティスト・ヴィレッジを見においでよ」、「なんかやれるからおいでよ」ってダウに言われて、牛嶋均くんと行ったんですよ。私と牛嶋くんがダウのところに行って、そこで「THE SPACE」展参加が決まったんですよ。
[*タン・ダウ TANG Da Wu(1943- )=シンガポールの現代美術家。1970年から88年までイギリスで活動ののち帰国し、東南アジアの現代美術をリード。鑑賞者の参加を促すパフォーマンス、環境や社会問題を提起するインスタレーションで知られる]

小勝:それは、行かれたっていうのはじゃあ前の年ですか? 92年に「THE SPACE」をやって。

草野:そうですね、その前の年(1991年)ですね。で、その時「RYO」っていう展覧会をやっていたんです。日本人だけの展覧会をシンガポールで。それに寺内さんが出していて。で、行ったときにちょっとインストールのお手伝いしたんですね。

小勝:「RYO」っていうのは?

草野:旅行の「りょ」だったみたいです。「旅」っていう漢字の音を当てて「RYO」。

小勝:これはタン・ダウが企画したんですか?

草野:だったと思います。たしか。いろんなところで人が結び付いていくんですよ。だからおもしろい時期だった。

川浪:シンガポール芸術祭の「THE SPACE」(1992年)には、ダウの声がけで福岡の活きのいい若手アーティストとして、草野さんと後に彼女のパートナーとなる坂﨑隆一さん、牛嶋均さん、オーギカナエさん、母里聖徳さんたちが、他にも山岡さ希子さんたちが参加してます。

川浪:考えてみたら、91年に初個展をした人を、私は3年後の企画展(「七つの対話」*)でもう取り上げているんです。作家の美術館デビューとしてかなり最速だと思うんですが。


<参考図版>2.《You can verge to inside of yourself, but》 1992年/赤唐辛子、鉛板、ヴェルヴェット/Hong bee warehouse・シンガポール                 


<参考図版>03. 《Model 1994》 1994年/福岡県立美術館
[*「現代美術の展望-’94FUKUOKA 七つの対話」展 1994年 福岡県立美術館/企画:川浪千鶴/参加作家:草野貴世、黒鳥晴男、桒野よう子、坂﨑隆一、世良京子、村上勝、和田千秋=福岡の現代美術シーンを定点観測するシリーズ企画展]

小勝:そうですよね。

川浪:草野さん、当時また30(歳)いってなかったよね?

草野:いってなかったですね。

小勝:ほかのメンバーの名前も見せてもらってよろしいですか。

川浪:坂﨑隆一さんが最年少で草野さんの2つ下だったことはよく覚えてます。「福岡の現代を代表する7人」として私が選んだメンバーのリストを、事前に山野真悟さんと黒田雷児さんにお見せしたら、彼らも「まさに、この人たちだね」って。他の作家たちも勢いありましたが、草野さんの作品の質と量が違っていたのは確か。それは来るもの拒まず方式だったということですね?

草野:そうですね(笑)。

小勝:桒野よう子さんって方も若いですね。

川浪:若いです(1967年生まれ)。

草野:少し下だったね。いつもなんか一緒だった、当時の展覧会では。

小勝:へ〜。

川浪:初期のVOCAにも出てますね。

草野:世良京子さんも。(第1回)VOCA賞を取った方。

川浪:そうです、そうです。福田美蘭さんと一緒にVOCA賞取って。

草野:世良さんもニューヨークから戻られたばっかりで、黒鳥晴男さんもドイツから戻られたばっかり。世良さんと黒鳥さんと私とで黒田雷児さんに呼ばれて、帰国したばかり組っていわれて、一度一緒に食事をしたことがあった。

川浪:あぁ、確かに。草野さんのような留学経験者が、帰国後福岡を拠点に今までに見たことのない作風の作品を発表する、そういう人が続々現れた時代…。

草野:そうですよね、なんかたまたまそうでしたよね。

小勝:その福岡のアートシーンがものすごい活気に満ちていた時代とちょうど合致したということですか。

草野:そうですね、またそうじゃなかったら違ったかもしれません。

小勝:そうですよね。

草野:東京に行こうと思ったかもしれないけども。

小勝:なぜ、その福岡に落ち着かれたのかなっていうのは、やっぱりご実家があるせいかなってくらいにちょっと考えてましたけど、それだけではなく、アートシーンがものすごい、沸騰していたってことなんですね。

草野:やれるかもって、たぶん。

川浪:最初の個展からがもう怒涛の芋づる方式ですよね。みんなが次はうちで、次はうちでやってと。それを全部受けたんでしょう。

小勝:1年で何回やっているかって感じですよね。

川浪:92年が特にすごい、よく倒れなかった。

小勝:そうですよね。

草野:実は鹿児島で倒れました。過呼吸になって。

川浪:やっぱり。

草野:とても暑くて目の前が真っ白になって、手が痺れてうずくまって。「救急車呼んでください」って這いながら言った時に、「どうしよう、アルティアムの個展(1992年 三菱地所アルティアム・福岡市)がある」と思ってて。「9月にある、どうしよう、どうしよう」ってそればっかり考えてて(笑)。「私、ここで死んだらどうしよう」って(笑)。


<参考図版>04. 《untitled》 1992年/合板、鉛板、ヴェルヴェット/三菱地所アルティアム・福岡市

一同:えぇ、えぇ!

川浪:「おおいた現代彫刻展」(1991年 別府市美術館)には留学時代の作品を出して、優秀賞を受賞。作品は全部持って帰ってきたわけではないんでしょう?


<参考図版>05. 《generation》 1990年/天画廊・福岡市

草野:そうです。これは軽い作品だったんで、これだけ持って帰ってきてたんですよ。それは天画廊の個展(1991年)にも出しました。

川浪:制作や発表が活発な一方でこの時代、90年代に草野さんは結婚、出産、たくさんの新しい家族と新しい土地で生活をスタートするといった、プライベートな変化もすごかった。
のちにこの頃は草野さんの中断期みたいな言い方を私たちはしてしまって、ちょっと誤解していたんですけど、改めて年表化してみると、草野さんは中断することなくずっと作り続けていたんですよね?

草野:そうですね、最初のころは、出産から5〜6年ぐらいはちょっと頑張っていたんです、本当に。なんかすごいスケジュールでも、寝なくても作ろうって思って。あの頃は夜中に作っていたら子どもが泣いてくるし、寝かせにいってまた戻ってやっていたら、また。夜中しか作れなかったんです、昼間は働いてたし。


<参考図版>06. 《breathing》 1999年/蜜蝋、鉛板、布、大豆/モダンアートバンクWALD・福岡市

小勝:何をしてらしたんですか?

草野:教える仕事をしていました。九州造形短大で教えてたのと、あと専門学校をいくつも持って。最初は英会話教室の先生もやっていたりとか(笑)。もう、時間の切り売りでしたね。

小勝:ご結婚されて生活を支えていたという。

草野:これだけ展覧会やってもお金にはならないんですよ、ぜんぜん。

小勝:そうなんですよね〜。

川浪:今もそうでしょうけど、基本、持ち出しですよね。

草野:そうです、そうです。でも今よりはちょっとお金になる仕事もいくつかはあったんです。(三菱地所)アルティアムもお金は出たし、メセナと言われていた時期だったので、少しは(収入)あったんです。それでもやればやるほど大変(笑)。自分で自分の首を絞めるみたいな状況で。

小勝:パートナーの坂﨑隆一さんもアーティスト?

草野:そうです。

小勝:ということで、このご結婚の決断というのは二人でアーティストでお互いにやっていくという。

草野:そうですね、一人ひとり作家でやっているんだから、生きているんだから、二人一緒でもたぶん生きれるだろうって、めちゃくちゃ…

川浪:それが事実婚を選んだ理由ですか?

草野:そもそも結婚というかたちでなくて(笑)、一緒に住もうと。ただ住むところを、部屋を借りようと。私は教えに行っている学校が近くにあるからとりあえずここ(古賀市)が福岡にも近いからって企ててたんですけど、着々と。そしたらうちの母がそれに気が付いて「結婚もしないで家を出ていくとは何事だ」と。付き合っているのは知っていたんで、「家を出るならきちんとしてから出ていけ」と。ただし、籍は入れなかったんです(笑)。でも一応、家族のお披露目というか結婚式は挙げた。

川浪:そこはもう折れてくださったんですね。

草野:はい。で、籍は入れなかったんですけども。ただ坂﨑の家族も一緒に、坂﨑のお母さんとおばあちゃんと同居。一気にけっこうな大家族に。結婚式の次の日からですよ。

小勝:え〜!

川浪:いや、すごいですよ。

草野:なんにも考えてなかったんですよね、私。当たり前だと思ったんですよ。それしか方法がない、別に暮らすともっとお金が大変じゃないですか。

川浪:彼は熊本の方だから、お義母様とお祖母様を呼び寄せて。

小勝:お父様はもういらっしゃらない?

草野:はい、そうです。なので、おばあちゃんは当然お世話をしないといけない状態だったし、お義母さんはまだ少しお若かったので、お仕事をされていたんですね

小勝:三世代同居っていうのはねぇ。

草野:そう、三世代同居だった。

小勝:かなり厳しいと思いますけど、でも、うまくなんとか。

草野:そうです。当時、猫もいっぱいいたんです(笑)。

川浪:二人生まれたお子さんも女の子で、全員女性(笑)。坂﨑さん一人が男性(笑)。子どもの戸籍とか、確定申告もぜんぶ別だったんでしょうけども。それぞれが独立したアーティストであるというところから、生活の役割分担とかそこら辺は話し合ったり、ルールを決めたりしたんですか?

草野:してないですね。なんか本当に状況を見ながらという感じだったし、やっぱり彼は熊本出身で、女性の家族が多い中で育ってるので。もともと非常に物分かりはいいし、言えばちゃんとやってくれるけど、けっこうボスなところがあるから。

川浪:ボス?

草野:ちょっとこう、うん(*いばっている感じのポーズで伝える)。

一同:あぁ。

草野:そういうところがあるので。それにお義母さんとおばあちゃんがいらっしゃるから、やっぱりなかなか「お皿洗って」とか「掃除して」とかっていうのは頼めなくて。頼んじゃうとお義母さんとおばあちゃんがやっちゃうから。だから事を荒立てなくてもいいかなっていう感じもあるので、そこはもうなんにも。だから、家事とかはやってました。

小勝:お一人でやられてたんですか?

草野:いえ、義母が一緒に。私、仕事もあったので。

小勝:逆にね、お義母様がまだ元気であれば主婦が二人いるみたいで。お任せできるところもあったかな?

草野:そうなんです。すごくお料理も上手な方だったし、すごく助かって。子どもも展覧会の時とか遅くなったらみてもらえたりもできたんで。

川浪:最初から同居ってと思ったけど、逆にそれは創作しながら、生計もたてながら両車輪でやっていく家庭においては、裏方はちゃんとやっとくよ〜みたいな、支援があるみたいな。

草野:だと思います。

川浪:いい関係、環境だったんですね。

草野:逆に二人だけだったら、子どもを産んであの状態ってのはかなり苦しかったと。子どももみてもらえない、お金も稼がなきゃいけない。

川浪:実家から離れているから親に預けるわけにもいかないですもんね。

草野:最初の5年は、だからやれたんだと思います。

小勝:なるほど。

草野:ただ、やっぱり家計の足しにもならない展覧会をやって、お義母さんとかおばあちゃんに迷惑をかけているって状況もきつくなった。まぁそういうのはありますよね。坂﨑はそうじゃなくても、私はそれを感じないといけないっていう気持ちはありましたよね。

小勝:そういうところがね、やっぱり男性と女性のこうね、ジェンダーギャップはありますよね。

金:決定的な違いですよね。

川浪:留学から帰ってきて制作をずっと続ける女性作家として、草野さんは先駆的な存在だったけれども、それ以前の女性作家は、福岡の場合は結婚や出産を機にほとんどが活動をやめていったじゃないですか。そういうことで言うと、草野さんは活動を中断しなかった最初の例かもしれません。あと同世代のオーギカナエさんも。
双方ともパートナーがアーティスト。どちらも支えあう家族に恵まれたとは思うけど、やっぱり草野さん以前とその後ではぜんぜん違う。きっとたくさんの人に影響を与えてると思いますよ。

小勝:作品の内容にも影響しましたか?

草野:そうですね。子どもを産むことがあって、やっぱり…。以前もそうだったんですけれども、何かつながっていくものを感じて。女性っていうものについてはもともと。これは(参考図版(1))子宮だったんですよね、このお椀の形は。

川浪・小勝:あぁ、そうなんですか。

草野:子宮っていうか母胎。そういうコンセプトを書いて大学院もapplyしたんですね。
その中に生き物がいるっていう、そういう感じだったので、なんかそういうのがつながってくるというか。私は母親の中にいて、今度は私の中に子どもがいてっていう、本当に入れ子になっている感じ。自分の身体にそういうイメージはありましたね。だから感覚としてすごくそれが強くなったのはあったと思います。自分の中に入っていくような感じはありましたね。

川浪:蜜蝋という素材だけにこだわる必要はないんでしょうけど、やっぱり作品も単体のものから空間的なものにだんだん変化しますよね、この頃。

草野:寺内曜子さんの作品を見たときの感覚もそうですけれども、外側の世界は自分に対しての外ではなくて、それはどこかの内側であって、自分の身体もそういうものであってつながっている。生命もそうですけども地球も宇宙もそう。ずっとつながっているということが、言葉とか理論的なものだけじゃなくて、身体の感覚として強く思えるようになって来ました。以前の単体のイメージが強かった頃の作品よりも、こう、深く入っていくような感じがして。それで空間を使っていくような表現になっていくような気はしていました。

【活動ペースダウンの時代を経て、「水の間」展での復活へ】
川浪:ただその後10年間くらい本当にめまぐるしく、家族の入院や介護、あとご自分の手術や交通事故。本当にいろんなことが続きますよね。作品つくらないとか、アートをやめようとか、そういう考えもよぎりました?

草野:それはね、思ってました。結婚して5年ぐらいは頑張ってやってましたが、それ以降は展覧会がすごく辛くなるっていうか、時間がゆっくりなくて状況が十分でないのに作品を出すことにストレスを感じてしまったので。
ちょっと休まなきゃっていうか、無理やり出しても仕方ないと思ったことも実際あったんです。それが何年か続いて、今度は家族のこととかに追われたり、子どもも怪我したりすることもあったし。
そうこうやっていると、「あ、作らなくてもいいのかな」って。作らなくても生きていけるかなって。そもそも私、生きるために作っているという感覚があったので。生きるためにというか、生きているからというか、私にとって(作ることは)必然っていうか。そういうところがあったので、その時は、言い方ちょっとおかしいんですけど、「私、ちょっと幸せになっちゃったんだ」と思ったんです(笑)。

川浪・小勝:なるほどねぇ。

草野:少し不幸じゃないと作品ってできないんじゃないかって思ってた。なんだろう、ものを作ることって、やっぱり欠落しているとか、失っているものとか、そういうものを埋めようとする作業だったり、そういうところもあったので、なんか「満たされちゃったんじゃないか」と思ったりした時期もありました。

一同:ふ〜ん。なるほどねぇ。

草野:子どもにけっこうフォーカスしていた時には、すごく求められる、誰よりも求められる人間がここにいるっていうのがあって、「このまま作らないのかな」と思う時期もありました。

金:その辺りは、先ほど「生きるために作った」とおっしゃいましたが、作ることによって自分が生きている感覚を得られるからで、お子さんが生まれてそこでまた求められる。先ほどの、おばあちゃんとお母さんとそれぞれが入れ子状になってつながっている、そのあとお子さんが生まれたら、そこでまた求められることによってご自分の制作というのは少し、まぁ作らなくてもいいのではないかもしれませんが、お子さんによってまた少し満たされる感覚とか、そういうこともあるんですかね。今伺っていて、すごく考えさせられました。

草野:作るっていうことをしなくても満たされるってことですか?

金:満たされるではないんですけど、それまで本当に目まぐるしく、91年からお子さんが生まれて、またこの10年…10年まではいかないか、7〜8年?も活動していらしたから。少しだけ燃え尽きて、またその一段落、その次の段階にいく時期だったんですかねぇ。

草野:そうですね、満たされるっていうとそうかもしれないけど、なんて言うんだろう。満たされるというよりは何かこう、違う形でもできるんじゃないかと。

金:はい、はい。

草野:発表という形ではなくても、作品を今まで作っていることに対して考えてきたことは止まらない。ず〜っと同じことを考えている。自分の内面と、自分はいったい何者なんだろうとか、ここに私はいていいんだろうかとか、この世の中ではどんなふうに自分は存在しているんだろうとか。それは変わらないんですよね。
変わらないんですけど、今度は子どもを通してそれを考えたりとか。作ることとか発表することじゃない場所でも、それはできるんじゃないかというようなことは思いました。

金:それまでものすごく作って発表されてきましたからね、それの結果とか、その後に訪れた心境とかだったんですね。なんかすごくわかります。

川浪:事前の打ち合わせの時にも、「展覧会のための作品づくりはもうしないかもしれない」と思った、と言ってましたよね。

金:あぁ、それはすごくわかります。

草野:作品はずっと作ってるんだけど、私の中では。形にならなくても。例えば極端な話、形として存在しなくてもずっと考えてるし、ずっと思っているし、ずっと欲しているし。だけど、まぁ発表という形はとらなくてもいいんじゃないかっていう気持ちにはなってきましたね。

川浪:展覧会開催までに何点制作するっていう制作じゃなく、でも何かを模索をしていた時代は、具体的に手を動かしてはあまりいなかった?

草野:そうですね、古い作品を出してくれみたいな話もちょこっとあったりもしたので、その都度ドローイングやったりとか、あとアルバイトみたいにして新聞に挿絵を描いたりとか、そういうのもちょっとありましたね。

川浪:新聞の挿絵は初めて聞いた。

草野:あとはモニュメントの話とかもあって、そういうのもやったりとか。お金にしなきゃいけないんで、そういう営業に回ったこともあります。仕事に大してならなかったんですけど。

川浪:子どもたちも大きくなっていくし、収入大事です。

金:そして、97年から10年くらいはいろいろと本当に家族でもお子さんでもご自身もご病気なさって。

小勝:これはちょっとうかがっておきたいですね。お願いします。この時期はつまり心境の変化だけではなく、止むを得ない…。

金:事情が次から次へと。

川浪:今回のためにここまでプライベートな情報を出してくださったんで私も初めて知りました。2007年から2009年にかけてのお祖母様の介護と看取りから、2017年の子宮内膜症の手術まで、よくこれだけ…。

草野:そう、もう呪われているとしか思えないですよね(笑)。

小勝:言ってみれば本当に不幸が続いたみたいな。

草野:でも、周りからもそう言われるんですが、本人はそうは思わないんですよ。ただ目の前にあるものをクリアしていっただけで。でも、まぁ結果的には元気でいれているわけだし。その都度、新しいものが見えてなんかおもしろかった、むしろ。

川浪:じゃあ、精神的にはものすごく落ち込んでもおかしくない時期だけれど。

草野:ぜんっぜん落ち込んでなかったですよ。
乳癌の時も、みんな癌って聞いたら頭が真っ白になるっていうじゃないですか。まったくそれがなくて。癌だろうなってなんとなく思ったんですね、最初の時点で。
きっとなんかそういうことなんだろうなって思ってたら、やっぱりそうだった。ひょっとして、死があるかもしれない、とも思いましたけども、そんなに悲観的じゃなかったんです。それは今の私の身に起こっていることだから、それはもう「受け入れよう」と思ってたので。意外と平気でした、しかも入院中はすごく時間ができて(笑)。

一同:(笑)。

草野:2週間、本も読めるし、音楽も聴けるし、なんにもしなくていい。

川浪:でもその後の放射線、抗がん剤治療ってけっこう大変だったでしょう?

草野:それがけっこう大変。

小勝・金:うん、うん。

草野:放射線治療には毎朝、朝一番で病院に入って、その足で仕事に行くんですよ。それを繰り返して、1カ月…1カ月半ぐらいすればよかったので。ただ放射線治療(の後には)、やっぱり眠気がすごくさして、それで交通事故に遭うんですよ(笑)。

一同:そういうことなんだぁ!

草野:ですよ。私の不注意なんで、人を巻き込まなくてよかったんですけど。

小勝:車を運転されていたんですか?

草野:えぇ。

川浪:ムチウチ症とかは?

草野:なってないんですよ。でも、頭を切って12針ぐらい縫ったんです。

一同:えぇ!

草野:それだけ。

川浪:それだけ…って。

草野:でも頭、痛くないんですよ。ほかのところよりも(笑)。痛みには強いので(笑)。

川浪:草野さんって聞くだに、なんかタフ。というか自分とアートの関係もそうですが、病院ともずっと縁が切れない人なんですね。

草野:本当にそう思った、私。病院好きなのかな?って行く度に思うんですけども(笑)。

小勝:でも常に生還されるってところがね。

川浪:そう。

小勝:赤ちゃんのころから運を、いっぱい幸運を持って生まれた。

草野:悪運なのか…。

川浪:その度に生還って、いま小勝さんがおっしゃったから、なんか生まれ直しているみたいな感じ。

草野:本当に意識がまったく。中央分離帯にぶつかって横転したんで、車は廃車で。血だらけだったんです、車の中で。だけど、ぜんぜん覚えてないから痛くもなんともないんですよ。

小勝:意識が戻っても?

川浪:みんな大事故だと言って駆けつけて。

草野:だから病院にみんな来た時には、なんか意識はあったけどぜんぜん覚えてないんですね、脳震盪だから。「誰か巻き込んでいないか」って一生懸命、何十回となく娘に訊いたらしくて、娘が「怖い」って言ったらしいんです(笑)。で、次の日に来た時も同じことを訊いて、その時は目覚めてたんですけど。
車に乗った時からまったく覚えてなくて。「あぁ、死ぬってこういうことなんだろうな」って思って(笑)、「痛くないんだ」とか思ったぐらい(笑)。

金:重い脳震盪だったんですか?重かったでしょうね。

草野:でも脳波も調べてもらったけど特に問題はなくて。

小勝:よかったですよねぇ。

草野:ただその後目がちょっと、視力が落ちたので、頭のせいかと思って…。

小勝:それはもう、交通事故の影響…。

川浪:これ、ぜんぶ連なっているんですね。抗がん剤治療から、交通事故から、視力低下。

草野:そう思っていたら網膜剥離が見つかったんです。その前にぶどう膜炎が見つかって、それで通院していたから、網膜剥離も失明する前にわかったんですよ。

小勝:あぁ、よかった。やっぱり、幸運を持っているんですよねぇ。

川浪:ぜんぶつながった。

草野:つながってるんですよ。

川浪:網膜剥離は遅れると本当に大変なことになりますからね。

草野:すぐに「明日手術です」って言われて。「いや、私ちょっと帰らないといけないし、まだ仕事もあるんで」って言ったら…。

川浪:動いちゃいけないでしょう。

小勝:(笑)。

草野:「そんなことをしたら失明する場合がありますから、もう、すぐ入院です」って言われて。そんな感じだったんです。

金:ぶどう膜炎じゃなかったら、これはわからなかった?

草野:そうだと思います。ぶどう膜炎になってずっと眼球にステロイド注射をしてたんですよ、毎月。しばらく一年ぐらい。

川浪:(*小声で)怖い。

草野:そうそう、目にね、こうやって開けたまま打つんですけど。その後、網膜剥離でしょ。網膜剥離の治療でステロイドを多量に投与するので、白内障がぐっと進むからって言われて、白内障の手術もしたんです。そしたら眼内レンズを入れるじゃないですか。

川浪:え?両方とも?

草野:いえ、片方だけ。網膜剥離をした方だけ、白内障の手術も一緒にしますって言われたので。そうなると、目の色が違う。目の色っていうか、見えるものが右と左で違うんですよ。

一同:へ〜。

草野:それがわかって、おもしろかったんです。

小勝:色が違って見えるんですか?

草野:明るさが違う。だんだん慣れてきますけど。フラットに見えるんですよね。白内障の手術をすると明るくなるけど世界がフラットなんですよ、陰影が少ないんです。

一同:へ〜。

草野:片方はふつうの、自分の眼球なんで陰影がけっこう濃く出るんですけど、片方はすごくパーンってハレーション起こしたみたいに、ちょっと大袈裟ですけどフラットな世界なんすよ。で、「見え方が違う!」、それすごく面白くて。やっぱり人って誰も同じものを見ていないんだなあって思って。

川浪:楽しそうですね。

一同:(笑)。

草野:でもこれは、そんなことがないと気づかないなって思ったんですね。

金:それって慣れるんですか?慣れていく?

草野:だんだん慣れてはきますけど、やっぱりこうやると…(*片手を目にかざす)わかりますね。最初に目がおかしいってなった時に、やっぱり癌センターにかかったんです。「目は転移するから」って言われてたので。乳癌から目に転移する可能性があって、先生がすぐMRIを予約してくれたんです。

金:もしかしたら転移じゃないかと。

草野:うん、転移じゃないかと思ったみたいで。

金:でもそうじゃなかったんですね。

小勝:網膜剥離も重篤なことですからねぇ。

草野:そうなんです。その翌年に今度は子宮でしょ(笑)。

川浪:どんだけ病院が…

草野:好きなんだってことです(笑)。

小勝:でもその人から見れば試練の日々を超えて、2016年の個展、「水の間」というのでなんかこう、華々しく復帰されるという感じでしょうか。


<参考図版>07. 「水の間」展 2016年/何有荘アートギャラリー・北九州市

川浪:中断や休止していたという印象があったけど実はそうではなかった。それでもやっぱりかなり離れていた印象があったので、(「水の間」展は)「草野さんが活動を再開!」って、なんかここら辺に告知の横断幕が出てるような感じが。

草野:そうですか、いや〜。

川浪:福岡のアート関係者は口々に言ってましたよ。

草野:そうでしょうか。私は誰も来てくれないんじゃないかと思ってました。私のことみんな忘れてると思ってました(笑)。

金:意外と忘れないものですよ、たった6年でしょ。それは誰も忘れない。

川浪:おそらく(福岡のアート関係者は)ほとんど見に行ったと思いますよ。で、もう展覧会のためには作らないって思った草野さんが、家を丸ごとを使ったギャラリー(何有荘アートギャラリー・北九州市)で大規模な個展をするっていうのには、どういう気持ちの変化があったんですか?

金:これはご自分が? 声がかかったり?

小勝:そう、どなたから企画をされて…。

草野:偶然なんですよ、これも。何有荘アートギャラリーからうちの実家の会社に工事の問い合わせがあった時に、一応、坂﨑も私も会社に籍を置いていたんですよ、仕事になるようにって。大した仕事にはならなかったんですけど。
それで彼が仕事として(ギャラリーを)見に行ってるんです。そうしたら展覧会をやってて、面白かったって。それが(知り合いの)中村共子さんの叔父様の個展(「森永恭二 春は静かに訪れる」展 2016年)、その版画がおもしろかったんです、すごく。日曜画家じゃないですけど、発表とか考えずにコツコツとすごい量の色刷り版画をされていて。点数がめちゃくちゃ多くて。一人でどこにも発表せずにこれをやってて、「これは面白い」って言って坂﨑が。「絶対、見に行った方がいいよ」って言って、じゃあって私も。自分が発表してない間は、本当に展覧会も見に行ってなかったんですよ

川浪:なるほど、見にも行ってなかった。

草野:見にも行ってなくて。だから若い作家さんも、新しく来られた学芸員さんも全然知らなくって(笑)。だからもう美術業界は私のこと誰も知らない、覚えてないだろうと思っていたくらいだったんです。
その展覧会は、そういう業界とはぜんぜん関係ないけど面白いって言うから見に行ったんです。そしたら、偶然中村共子さんさんがいたんです。中村さんは(三菱地所)アルティアムにいた方でアルティアムを辞めてフリーのライターになっていたんですけど、たまたま叔父様の展覧会をやったというご縁で、次の展覧会もお手伝いしますよって感じでいらしてたらしいんです。
そして、春野修二さんがちょうどいて。彼も(ギャラリーの)お世話していたみたいで。北九州市立美術館に以前勤めていた春野さんは、私の作品が(北九州市立)美術館に所蔵されていることも知っていて、ここで次は草野さんをやりたいって思っていたらしいんです。

川浪:人がつながりますねぇ。

草野:私は何にも知らなくてただ見に行ったんですが、「草野さん来るなら、中村さん一緒にいて紹介してください」って話で。そういう話になっていたらしくて、「展覧会やりませんか?」って言われました。その頃の私は、「なにか話があったらやってもいいかな」ってチラッて思ってはいたんです。病気もいっぱいしたし、ひと通りいろいろして「もう死ぬかもしれない」と思っていたんで。

川浪:ひと通り…。

小勝:(笑)。

草野:だからもう、次何かあったら死んじゃうかもしれない(笑)。
「何もやってない、何もやってこなかったな」と思って。ばたばたと時間が過ぎていった、言っていただいたことを受けて受けてというやり方だったんで、「なんか本当にやりたいことをやってないんじゃないか」と思ったんです。なんかいろんなものがつながろうとしているのに、それをなんかちゃんと自分の中で消化してないんじゃないかと思って。
「やれるかどうかわからないけども、時間たっぷりいただけるならやりましょうか」ってご返事をしたんです。「時間、本当にたくさんください」って言ったら、(オーナーが)「1カ月でも2カ月でもいいですから、ここに泊まっていただいてもいいですから」と(笑)。

川浪:それは会期ではなく準備?

草野:準備です。リハビリをまずしなければいけないので。

川浪:このギャラリーは次から次に展覧会をやるのではなく、時々やるんですね。

草野:オーナーは体調のこともあるので今はすごくスローな、マイペースでやっているみたいです。

川浪:一軒家をギャラリーにしてるという。

小勝:へぇ〜。

川浪:(ギャラリーに)声をかけられて「まだ何もやってないな」って自分の気持ちを呼び起こされたみたいなことをさっきお聞きしましたが、事前の打ち合わせの時には「間に合わない」というすごく強い言葉も耳にしました。どちらも同じニュアンスですか?

草野:そうですね。まだ本当に何もやってなくて、このままだったら間に合わないって。あと残されている時間で何ができるかなって思ったら、本当にあっという間じゃないですか、10年なんて。10年ないかもしれないと思ったので。

川浪:(ギャラリー空間ではなく)ここ普通の日本家屋ですよね?

草野:(*写真を見せながら)こういうふうに神棚とかあるんです。
これはあんまり写真よくないんですけど、こうやって畳敷で。で、畳一枚はがして土入れたりしてるんです。


<参考図版>08. 《水の間Ⅰ》 2016年/何有荘アートギャラリー・北九州市

小勝:わ〜。

草野:すごくロケーションも良かったんです。真横におっきい池があって、その反対側には海があって。本当に水と水の間に挟まれたお家。それも細〜い、細〜い道を渡って行くとそこがあるんですよ。車一台通れるか通れないかの細い道。なんか本当に待っててくれたみたいな場所だったんです。その導入部もすごく気に入ったので、「あぁ、ここなら面白いな」って思ったんですね。

川浪:(展覧会タイトルが)「水の間(あいだ)」。作品にも水が登場しましたね。

草野:全部に水が入ってる。この中にも水が入ってるんですね。(*作品写真を見せながら)


<参考図版>09. 《水の間Ⅰ》(部分) 2016年/蜜蝋、鉛板、ヒシの実と茎、水/何有荘アートギャラリー・北九州市

小勝:あ〜なるほど。

川浪:壺状になってて、底に水が溜まっている…。

草野:家のこっち側に池があって、池に反射した光がこの壁に映るんです。小波がここに立つんです。空間と時間をゆったり使える展覧会だったので、白い壁にその水の反射の時間を描き込んだり、水のドローイングをしたり。展覧会期中も制作ができるみたいな感じがあって。自分と向き合うのにすごくいい環境でした。リハビリにいい環境だった(笑)。
ここは上まで全部蜜蝋を貼ってるんです。(*展示空間の写真を見せながら)部屋の上までぜ〜んぶ貼って。神棚が意外とうまく合ってるって(笑)、なんか一緒になってる。

小勝:こういう作業はお一人でされるんですか?

草野:だいたい一人です。全部だいたい一人で、本当に巣作りするように、というかね、私の感覚だとそうなんです。蜜蝋を使うからってこともあるんですけど。
最初期の大規模な個展(1993年 マニュファクトリーギャラリー九州・福岡市)のときも蜜蝋を床にも天井にも全部貼って。鉛も貼ったんだけど。これも時間をすごくもらって、1カ月ぐらいもらって全部一人でやりました。ず〜っと、本当になんだろう。巣作りするようなんです、自分の中では(笑)。

小勝:なるほど。

【藍との出あい、新たなつながりとこれから】
川浪:転機になった「水の間」展から、その後(2019年以降)の絣とか藍とかの展覧会の連鎖は、さっき巣作りっておっしゃったけれども、実際に時間をかけて調べて、場所に関わって、人との出会いをもとにしながら…今までとは発信の仕方や表現が変わってきたような感じがします。それとその面白さがどんどん波に乗っている感じも。

草野:病気や事故もそうなんだけど、つながっていることが作品の中でも起きている感じが常にあります。展覧会を一つやるとその展覧会から宿題もらうみたいなところがあって、次のアイデアが出てくる。
で、特にここの場所と向き合うために周りの環境を調べて、リサーチにすごい時間かけたんです。近くの池には菱の実がいっぱいあって、菱の葉がば〜って広がってて、すごく素敵なんです。その菱の実を作品の中に使ったりもして。菱の実ってものすごく形が不思議じゃないですか。鋭利な形でほんと、鬼の形相のようなね(笑)顔みたいなんだけど。そういうものも作品の中に使ったりして。
それで、藍を調べていくうちに藍の葉、植物の藍が持っている能力というか、そういうものと人との関わりとか、今度は歴史上の藍と人間の関わりとか、そこに差別があったりとか、そこから今度は沖縄のハジチ(琉球時代に女性がしていた入れ墨)、琉球藍とかも調べたりしました。ハジチには女性の問題とかも入ってくるし、ずっとつながっているんですね。だからこう、なんか行く場所が見えてくるって言うとおかしいけど、そうやってつなげてもらっているような感じが私にはあります。

小勝:すばらしい復活の展覧会でしたね、この「水の間」というのがね。それ以後の活動が、ここからば〜っと広がっていくみたい。

草野:(*「水の間」展の写真を見せながら)これ、私。頭から水かぶって。蜜蝋って私にとって皮膚のイメージが強くて。皮膚移植をした頃があったので。

川浪・小勝:なるほど。

草野:そういう経験があるもので、蜜蝋の感覚っていうのはソリッドではなくて、皮膜のような薄物の、皮膚のイメージなんですね。で、実際に質感も似てるし、有機物だし。そういう皮膜というか薄いものということで、薄い白い服を着て水かぶって。「水の間」だったんで、その前で写真を撮ったんですけど。

小勝:これは写真として発表されたんですか。

草野:展覧会場にはこの写真も貼っていました。

小勝:なるほど。

金:3歳のときの交通事故で皮膚移植。成長とともに一番やわらかい生まれながらの皮膚をまた失って、それはどこか草野さんの身体の中に記憶として残っているんですかね。潜在的な。それが呼び起こされる感覚がまた作品の中にも。

草野:そうですね、傷跡もすごく酷くって。ケロイド体質だったんですね。ケロイド体質なんでぜんぶ火傷みたいにケロイドになる。最初は伯母の皮膚をもらって移植。するとそこはダメになって、そこで自分の皮膚を剥いで移植するんですが、その剥がした跡もケロイド状になってしまったんです。だから、最初の傷だけじゃなくて、むしろ傷が増えていったんですよ。

金:あぁ。

草野:それで、そこの傷も縮めていく作業もしなきゃいけなくなって。母が必死になって、まぁ女の子だしっていうので、とにかく傷をとにかく元通りにしてあげたいっていう意識が強くて。母が必死になって手術をどんどん。
今になって思い出すんだけど、手術をするかどうかってそういえば聞かれたことがないなって。手術はいつも決まってて、夏休みとか、春休みとか。退院すると母が次の予定を立てて。したいかどうかとか、聞かれたことがなかったんです、そういえば(笑)。

一同:(笑)。

草野:母は必死だった。必死だったとは思うけども、いま母を介護しているからですね、なんかいろんな見え方があって。女性として、私も母も女性だし。で、よく整形するとやめられないっていうのあるじゃない、次々と。

一同:うん、うん。

草野:人体改造じゃないけど、なんとかしょうって思って作ったりする人もいますよね。やりだすと変身願望じゃないけど、どんどんと際限なくやりたくなる。母自体がなんか私と重なってたんじゃないかな、って思うようになったんです、最近。

一同:あ〜。

草野:私が自分の子どもと重なることを感じるんですよ、最近。

金:すごく面白い。

草野:だから母は、もちろん母のことをありがたいと思ってるし、すごく愛情もってやってくれたと思うけど、母も気がつかないうちにまるで自分のことのようになっていたんじゃないかと。なんかそういう気持ちが最近するんですよ。

小勝:ふ〜ん。

金:大変な思いで難産で生まれたお子さんをまたね、赤ちゃんの面影が残ってたときに、あんなにねぇ、いなくなるかもしれない大変な怪我をされて。あのときは若いお母様の感覚としてつながっているかもしれませんね。

草野:だからそんな感じが、最近母の介護をするようになってよく思ってます。

金:事実そうだったということもあるけど、やっぱりそういうことを思われることは大事だと思いますね、うん。草野さんがおっしゃったような蜜蝋と皮膚の皮膜の話も大変興味深いですね。

草野:だから、そういうイメージはあって作っていますね、いつも。

金:女性アーティストの身体性とかよくいろいろ言いますけど、また違う身体性の創作とのつながりをみたような、伺ったような気がちょっとしました。蜜蝋や藍、琉球のハジチとかともつながって、おっしゃることが大変興味深いと思います。

小勝:その、今の2016年の復帰の個展から、現在に至るまでまた怒涛のような展開がありますよね。その辺、ずっと見ている川浪さんの方からぜひお聞きしてください。

川浪:私が藍の文化って言ったら、草野さんは文化そのものに興味があるんじゃなく、藍という存在、その不確さとか、不安定さにすごく興味があると。草野さんが歴史とか記憶とか、土地の物語を掘り下げていくっていう仕事、リサーチをこんなにされる方とは思わなかったです。

草野:私も思わなかったです(笑)。

一同:(笑)。

草野:思わなかったですけど、でもちょうど2019年に網野善彦さん(日本中世史研究者)の本を読んでいたんですね。

川浪:これも、たまたま「しませんか?」って言われた場所が、元絣倉庫(國武倉庫・久留米市)だったということですか。

草野:いくつか選択肢があったんですが、ここ見たら、ここがやっぱり一番素敵っていうか、よくて。古くて、「ここは面白い」って思って、ここでしたいって。

川浪:これ私、見れてないんですよ。2日間しかやってなくて。

小勝:あぁ、な〜んていうもったいない。

草野:2日しかやらなかったけど、私、1カ月ぐらいリサーチしたんですよ、2日のために。

川浪・小勝:なるほどねぇ。

草野:と、徹夜したんです。搬入も時間がなくて、朝までかけてやったんです(笑)。それで、2日だけ(の公開)でね(笑)。
でも、この2日っていう時間が逆にすごく大事だから、時間も入れようと思ったんです、作品の中に。(*写真を見せながら)それでここ、これ乾電池と豆電球なんですね。来られた方みなさんに乾電池と豆電球を渡して、お好きなところに置いていただいたんです。参加してもらうことにしたんです、この作品の中に。
で、先に来られた人の豆電球がだんだん薄暗くなっていくんです、時間とともに。で、暗いものもあったり明るいものがあったり、もう消えてしまっているものもあったり。この中に時間というものが少しずつ充満していくんじゃないかと思って。そして人が来られることで、記憶もここにも充満していくんじゃないかと思って。2日だったからこそ、それはやれたことだったんですね。
*データベースとのリンク→画像4《忘却倉庫》2019 年  https://asianw-art.com/kusano-kiyo/

川浪・小勝:なるほど、なるほど。

草野:これもそうですね。藍を実際ここで発酵させてる状態なんですけど。なんていうんですかね、かせ(綛)っていう糸の束を入れて浸して染めてて。

川浪:絣のための括り(くくり)をした?

草野:きちんと括ってないです、あんなふうに綺麗に括れないから(笑)。大まかに括ったやつを半分ちょっと浸けておいて、時間とともにだんだんその糸が垂れたところがこの布にも染みていくんです。

小勝:なるほどね。

川浪:自然に酸化して発色していくという…なるほど。

草野:そうですね。染みていくっていうか、二つのものに影響を与えていくっていうか、発酵がつながって続いていくって。ここは三つ編みの形にした糸で、それは事前に染めてあるものですけれども。なにかこう人の気配っていうのがあるような感じで。

小勝:三つ編みはやはり女性のイメージですか?

草野:そうですね。久留米絣を調べていくと、一番最初の、久留米絣の創始者が井上伝っていう女性。

小勝:なるほど。

草野:その女性が創案するんですけれど、本当にふつうの少女だったのが、あっという閃きからそれがどんどん久留米全体の産業を動かすほどのものになっていくんですね。それがちょっと面白くて。
テキストにも書いたんですけども、織り子って言われてた人たちが、自分たちで主張できる力をだんだん付けていって。その辺もすごく面白くて。

川浪:草野さんが書いてらっしゃるテキストで初めて知りました。

草野:ストライキを、そうなんですよ。あの時代にねぇ。

川浪:女工さんたちの権利を。

草野:自分たちで勝ち取ったっていう資料が出てきて。こんな田舎で、ですよね。久留米もやっぱり男性の強い地域だったと思うんですけれども、家庭のために染めてた人たちがそういうふうに変わっていくっていう。

金:家父長の、男性が強い文化ってどこの地域もそうです。やっぱり底辺の労働を支えている女工とか、その辺ストライキとかやられてますよね。それが、久留米絣でも見えたりするのでしょうかね。

川浪:その國武倉庫での展覧会を真武真喜子さんが見て、Operation Table*でぜひ個展(2021年)を、ということに。
[*Operation Table=北九州市八幡東区にある旧動物病院を改装したアートスペース兼マイクロ・アーティスト・イン・レジデンス施設。主宰者・真武真喜子によるユニークな視点の企画展で知られる]

小勝:あぁ、そういうことですか。
その前に一度、個展「裏返り続ける…」(2018年、Operation Table)っていうのをやっているんですね。
https://operation-table.com/kiyo.html

川浪:そうです、そうです。これ、ですね。(*蜜蝋の空間の写真を見せる)
*データベースとのリンク→画像3《裏返り続ける…/蜜蝋の部屋 》2018 年 https://asianw-art.com/kusano-kiyo/

金:これはすごく面白かったです。

川浪:この空間は真武さんがずっとこのまま、今も保存しています。

小勝:すごいねぇ。

川浪:「色身」という個展は、この4色(*赤、黄、甕覗色、白)がテーマ。Operation TableのHPに記録写真が掲載されていますが、私を含む4〜5人が撮った草野展の会場写真を真武さんが「全部載せたい」って言って。というのが、本当にいろんな角度から写真を撮りたくなる魅力的な空間だったんですよ。
https://operation-table.com/kusano.html


<参考図版>10. 「rupakaya-色身(しきしん)」展 2021年/Operation Table・北九州
※データベースとのリンク→画像5《rupakaya-色身(しきしん)-/赤》2021 年 https://asianw-art.com/kusano-kiyo/

小勝:なるほどねぇ。

川浪:私はこう見たという、他人が撮った写真を見るともう一回その角度から見たくなるっていう。みんな、なんでしょうね、写真を通してそれをまた共有し合うんだけど、見飽きない。それがすごく草野さんの空間の魅力だなって痛感しました。
そして、その次は「紺屋の明後日」展(2021-2022年)につながる。ビル(旧第一松村ビル・福岡市)の一室で「とかげ一座学芸団」*が企画して、会期は年を跨いでるんです。
https://tokagenofumikura.wixsite.com/kodama/kodama2


<参考図版>11. 《紺屋の明後日》(部分) 2021-2022年/藍に染まった綿衣、藍で染めた糸、藍の染料/第一松村ビル・福岡市
[*とかげ一座学芸団=後小路雅弘(九州大学名誉教授、とかげ文庫主人、北九州市立美術館長)の元教え子たちからなる学芸活動チーム]

草野:4カ月の会期(笑)。

小勝:長いねぇ。

川浪:ここまで来るとなんかもはや展覧会と言っていいのかと。こういうのを簡単にプロジェクトと言ってしまっては、違うかもしれませんけど。

小勝:その4カ月の間に、

川浪:変わっていきます。藍も変化する。

小勝:それをぜんぶ草野さんが企画されているというか、計画を立ててやってらっしゃるんですか。

草野:そうですね。会期だけは、「とかげ一座学芸団」のキュレーターの方たちが決めているんですが、あとはもう自由で(笑)。ここ(第一松村ビル401号室)は元レジデンスのための場所で、このビル自体がなくなる予定(2023年8月活動終了)なので、ここの記憶っていうのをやっぱり作品に。「草野さん、記憶をテーマに作品つくっているよね?」って言われて。それに通りの名前として残る古い地名が紺屋だし、藍にまつわる作品をやっていたから、「紺屋でぜひ、紺屋の歴史も含めてやらないか」っていうお誘いだったんです。それは面白いって言って、紺屋町のことも調べていて、お醤油*とかに結び付くんですけど。
[*ジョーキュウ醤油=1855年に旧紺屋町で創業し明治末に上久醤油と名乗る。以来この地で醤油醸造業を継承。昭和40年代に先進的な集合住宅として第一松村ビルを建設]

川浪:藍もですけど、醤油も作り始めるんですよ(笑)。

小勝:へぇ〜。すごいですねぇ。

草野:発酵、そう、醤油屋さんを訪ねて、歴史とか聞いて。本(『城下町の商人から ジョーキュウ一五〇年の歩み』 松村富夫著 2005年 (株)ジョーキュウ)とかもあったんですね、それがまた面白くって。勇敢な女性が出てくるんです、その本の中に。そういう話とかも全部入れ込むような長〜いストーリーというか、長い長い展覧会。だからこれは誰一人完全なものは見てないんです(笑)、見れない。

金:そうですね。

川浪:私はけっこう通ったよね。

草野:そうそう、けっこう来てもらったんですけども。でも本当、その間もちょこちょこいじったりしてたし(笑)。

小勝:その1日を金さん見たわけですね。よかったですねぇ。いつ頃?

金:あれはたぶん…

草野:もう醤油があったから3月だと思います。3月に仕込んでいるんですよ。

川浪:このシリーズ、國武倉庫の展覧会から映像を初めて取り入れるようになりましたよね?それは時間とかリサーチとかに関係が?しかも手のイメージがよく映像に出てきて、皮膚感覚につながるというか…

草野:手がありましたね。

金:ありました、「色身」?

小勝:これって働いている方の手?

草野:これは違うんです。久留米の藍染のところの方の手なんですけれども、女性の手で。この方は「藍がすごく身体にいい」と。藍って、染めて洋服や着物とかになっても、10年経っても20年経っても生きてる、その中に。で、身体にすごく左右しているんだって。で、藍をしっかり手に染み込ませて帰りたいって手袋をしないで。ふつうみなさん手袋をするんですね。
昔は藍染する方は腕の上の辺まで真っ青で、それも一つあって差別があった。青くて汚れてるっていうので。


<参考図版>12.《紺屋の明後日》(部分) 2021-2022年/第一松村ビル・福岡市

川浪:手がいつも穢れてるから。

草野:あともう一つおもしろかったのが、網野善彦さんの話の中にもあるんですけど、藍の発色をよくするためにカルシウムとかリンとかも必要になるんですが、それで人骨を使っていたというような…まぁ、それはちょっと眉唾なんですけども。動物の骨でもいいのかもしれないんですが。要するに、墓掘りや非人の仕事であったというような…

小勝:つまり、被差別階級?

草野:被差別の職種の人だったということで、差別されたのは関西から南。関東ではそれはないんですって。関西からずっと西の方にそれは根強く残っていて。その話を展覧会場に来る方にいろいろ聞いたら、いらっしゃいました、聞いたことがあるっていう人が。

一同:へぇ〜。

草野:京都に行った時に、そういう話を聞いたと。

小勝:なんかちょっと小説に出てきたような気が、はい。その染め物をする人たちを差別するみたいな。

草野:でも、網野善彦いわく、もともと白拍子にしても猿楽師とかにしても、芸能とか芸術とかにたけていて、普通の人がやらないこと、魔法のような、神に近いことをやる人達に対して、畏怖の念みたいなものがあったんだと。被差別の人たちは同時に聖なる存在であったということです。藍染めの発色のために骨や貝殻に含まれるカルシュウムなどを混ぜて使うなんて化学者のようでしょう。聖なるものと穢れは実は同じことであったと。

川浪:「紺屋の明後日」展で行われたワークショップのタイトルが…

草野・川浪:「藍に手を染めて」。

川浪:「悪に手を染める」って言葉があるけれど、みんなが藍で手を染めてみようっていうのも今の話につながってきますね。

草野:藍って発酵していると熱が出てくるので生ぬるいんですよ。手を入れるとぬるりとするんですよ。なんか人に、人の身体に入っていくような感覚が私はあって、それもすごく面白いところだと。生きている感じがですね。生き物の中に手を入れているような感じ、すごく感覚的におもしろかったです。

川浪:これからもそういう藍の発酵のさまざまな姿だったり、歴史だったり、琉球藍を調べに行ったりみたいな、関心領域はそこから広がりそうですか?

草野:それこそ藍染が云々じゃなかったんですけれども(笑)。藍そのものが面白くって。
海外でもやっぱり同じく、全部種類は違うけど藍と同じようなものがあって、それも見聞きしていると面白いんです。琉球藍は泥藍なんですよね。本土の藍、蓼藍とぜんぜん違うんです、作り方が。それもまた面白くて。だからちょっと琉球藍を、もう一回きちんと調べに行ってみたいなと。原初的というか、発酵した泥状にして作るっていう藍なので。それもすごく面白くて。しかもその地域の気候に合ったところでしかできないので。植物の種類もぜんぜん違いますしね。

小勝:なるほどねぇ。

川浪:そろそろ締めの時間なので。これからの草野さんの夢とか、自分と表現とかについても。
若いアーティストに対しては、草野さんが自分の内と外を往復しながら考え歩んできた、その態度みたいなものから伝わるものがあると思います。
草野さんがこれからどうしたいかっていうことを、自分の日常と切り離せない、地に足をつけながら、連なっていく先に見たいものについて、教えてください。

草野:そうですね。ちょっと休止する前の作品の作り方とそれ以降の作り方とではやっぱり自分の中で少し違ってきていて、後者の方は、やっぱりどんどんつながってきている。そういうのが見えてきた、今やっとそういう感じになってきているっていう状況があって、すごくそれが一番面白いんです。

川浪:見えてきているというのは?

草野:次にやることが必ずつながってくるということ。別に私が求めているというよりもなんかこう、向こうからやってきているような感覚がある、そういうつながり方をしているんですね。だから例えば琉球藍の話もそうだけども、沖縄自体にもすごく興味があって。人類学の話だとか、網野さんの歴史の話だとかも読んだり…縄文やタトゥーの話にも。
話がちょっと飛んじゃうんですけども、長女がオーストラリアやニュージーランドにいた関係で、アボリジナルアートとか、あの辺の話を調べてたら私が興味があるものにすごく似ているところがあって、文化人類学にもすごく興味があります。日本に最初にやって来た人たち、歴史とか文化的なものがやっぱり北海道と沖縄にはものすごく色濃く残っていたりするから、行きたいなと思っていたりするんです。で、いま次女が沖縄にいるんで行きやすいし。

小勝:あぁ、そうですか。

草野:ちょっと行くだけでなく、なんなら本当にしばらく居ようかとも。まぁ、どこに行ってもいいわけなんで、場所を変えてそちらで活動して、ものを作ってもいいなあ、住んでもいいなってそんなふうにも思ってて。まぁ、どこでも行けるなっていう感じが今あるので(笑)。
でも実際は母の介護があるのでどこにでもは行けないんですけども。でもなんか、違いますね。子どもに手がかかっていた時はなんか、子どものせいにして、ちょっとしばらくできないな、苦しいなとかいうのはあったんだけど、今は母の介護で、母のそばをしばらくは離れられないんだけれど、「なんかそれでもやれることはあるな」っていうふうに思える。
それと、母から今度は知ることがあるなって。さっき言った、私が子どもだった頃や母親としての感覚だとか、そういうのが本当につながって感じられるので、もっと母に聞きたいことがあるなって。そういう気持ちがあるので。介護は足枷ではなくて、なんかたぶん次に進むのを後押ししてくれるものになるんじゃないかっていうような気持ちがしています。物理的には動きづらくなっているんですけど、現実的には(笑)。だからそんなに悲観的ではないんです、母に求められていることが(笑)。

金:まぁ、いい話ですね。

小勝:やはりそのご経験の中でね、また次の作品におそらくつながっていくことがでてくるだろうと思う。本当に流れがすばらしいです。

金:素晴らしい。

小勝:聞いていてものすごく感動しました。

金:私も。

川浪:ねぇ、本当に…素晴らしい。

小勝:草野貴世さんという、一人の女性の人生がそのままご自身のアートで、こう表現されていることの幸福というか、そういうことを感じました(笑)。

金:こういうような連鎖は、初めて拝見しました。私も。

小勝:ほんとほんと。私ちょっとここに来るまでは、地方で制作されることを選ばれたわけですけども、もっと東京で活動してもっと有名になるとか、そういうことを思われないのかしらみたいな(笑)、そういうことを伺おうと思ったんですけども、そんなつまらない小さいことは、もうお聞きしない。することじゃない、そんな質問とんでもない。

一同:(笑)。

小勝:草野さんの世界がこれだけ展開されているんだから、「見たい人は見に来なさい」ですよね。

川浪:今回のインタビューは、それぞれが聞きたいって思ったことから、(草野さんが)思いがけない人生の可能性を見せてくれた、なんかそういうふうに思わせてくれました。

小勝:川浪さんのおかげで、こういうすばらしい作家を紹介していただいて、本当によかった。

草野:ありがとうございます。恥ずかしいですね(笑)。

一同:長時間のインタビュー、本当にありがとうございました。

 

インタビュー終了後、廊下に置かれた作品を見せていただく。