内田あぐり インタビュー  Interview with UCHIDA Aguri

内田あぐり インタビュー
2023年6月5日
神奈川県三浦郡葉山町 内田氏の自宅兼アトリエにて
インタビュアー:小勝禮子、金惠信、川浪千鶴
紹介文・質問事項作成:小勝禮子
写真撮影:川浪千鶴、小勝禮子
書き起こし:関ひろ子(前半)、宮川緑(後半)
公開日:2023年7月17日

 

 

 

 

 

 

内田あぐり UCHIDA Aguri  日本画家 (アトリエにて)

1949年東京都港区赤坂に生まれる。日本画に興味を持ち、1969年武蔵野美術大学造形学部日本画学科に入学。1975年同大学院造形研究科美術専攻日本画コース修了、《女人群図-Ⅰ》が修了制作優秀賞を受賞。同年《女人群図-Ⅱ》とともに第2回創画展に出品し、創画会賞を受賞。この年結婚し、東京都西多摩郡の旧米軍ハウスに住み、横田基地周辺に住む女性たちをモデルに、多くの女性像を描く。1978年長女、亜里を出産するも、80年離婚し、中野区に転居。絵画教室などで働きながら創画会に出品をつづけ、個展も数多く開催。84年《人びと》、《男》などで男性身体を描き始める。1990年神奈川県葉山町に転居。1993年1-3月、文化庁派遣芸術家在外研修員としてフランスに滞在。帰国後、母校日本画学科の助教授に就任。90年代は風景と人物を組み合わせ、人体をトルソで表現。98年から身体を解体、再構成した「肉体」シリーズや「吊るされた男」シリーズに至る。2000年第1回東山魁夷日経日本画大賞展で大賞受賞。2000年代は大型作品を展開し、象徴的で哲学的なテーマを探求する。2003年9月から1年間、武蔵野美術大学在外派遣研修員としてアメリカ、ロンドン、メキシコなどに滞在。2017年から武蔵野美術大学共同研究「日本画の伝統素材〈膠〉に関する共同研究」に参加して日本全国を調査。2021年「膠を旅する―表現をつなぐ文化の源流」展(武蔵野美術大学美術館・図書館)で成果を公開した。2019年退任記念展「化身、あるいは残丘」を始め、大学退職後も毎年のように美術館などで個展を開催(原爆の図丸木美術館、佐喜眞美術館ほか)。2019 第68回神奈川文化賞、2022年第2回JAPA天心賞受賞。膠から川の流れに触発され、緑を基調とした大作の発表を続けている。

本サイトの内田あぐりのデータベース https://asianw-art.com/uchida-aguri/


 

小勝:それでは今から、内田あぐりさんのインタビューを開始させていただきます。2023年6月5日、内田さんのご自宅兼アトリエにお邪魔しています。

金:13時32分

小勝:聞き手は、小勝禮子と、金惠信、川浪千鶴です。はい、よろしくお願いします。

小勝:それで趣旨としては、ここ(質問事項)にも書きましたように女性アーティストの、いわゆる芸術だけではなくて人生も含めて、ライフコースの中での結婚とか出産とか子育てを選んだ人もあるいはそうでない人も、アーティストとして制作を続けてこられた方たち、そういう中高年の女性作家の方にお話を伺っております。芸術と人生についてということなんですけれども、趣旨としては、これからアーティストになりたい、制作を続けたいと思っているような、若い世代の女性たちにとって、何らかの指針になったり、励ましになったり、あるいは反面教師っていう人も中にはいらっしゃるかもしれないんですが(笑)・・・

内田:そっちが多いかな(笑)

小勝:そういうことを(このインタビューでは)目指しています。はい、普通のインタビューですと、やはり制作についての芸術論中心だと思うんですが、はい、ちょっとプライベートなことも含まれるということで、よろしければ…

内田 全然(笑) ありがとうございます。

小勝:人生の決断とか転機とか、それを差し支えない範囲でお話いただけるとありがたいと思います。
それではまず初めに生い立ちから伺いたいんですが…

内田:はい。

小勝:1949年9月22日のお生まれ。

内田:そうです。

小勝:それで港区赤坂と都会の真ん中(でお生まれになった)。

内田:昔、TBSがあったところに、日大三高があって、そこのちょうど裏手にすんでいたらしいです。

小勝:なるほど。それで、ご両親のご職業とかは教えていただけますか?

内田:もう普通に、父は鉄鋼関係の会社員で、母も普通の主婦でした。

小勝:あ、そうですか。えーと、ご兄弟(姉妹)は?

内田:10歳離れてる姉がひとりいます。

小勝:お姉さんがおひとりだけ。じゃあ、二人姉妹。

内田:そうです。

小勝:あー、なるほど。それで、ご両親あるいはお姉さん、ご親戚なんかで芸術との関わりのある方っていうのはいらっしゃるんですか?

内田:芸術との関わり…まー、いとこが、ずっと長くフランスに行っていました。

小勝:いとこさんは男性? 女性?

内田:男性なんですけど、私と同い年の…彼が、パフォーマー、パントマイムをパリで勉強していました。結構仲良かったんですけども。その息子が、フルート奏者で、有名な上野星矢さんっていう…

小勝:上野せいやさん?

内田:はい、星に矢と書くんですけど。(*上野星矢 1989年東京生まれ。東京藝術大学音楽学部を経て、パリ国立高等音楽院に留学。国際的に活躍するフルーティスト)

内田:すごい活躍してらっしゃいますね。最近は、お会いしてないんですけども。あとはピアノとか声楽とかの、その上野家は割とそういう(芸術系の)…方がいらっしゃいます。

小勝:あぁ、その上野家というのは、ご両親のご兄弟?

内田:えーと、母の、母方の、なんだろう? だからハトコ(再従兄、親同士が従兄の子)になるかな?
ちょっと、そうですね、割と近しい親戚なんですけど、はい。

小勝:それは、あぐりさんがご成長する過程で、同い年だと影響を受けるっていうことではなく、並行してっていう感じですかね?

内田:そうですね。大人になってからはそんなに、付き合いはなかったんですけども。幼い頃からよく一緒に遊んだりとかして。

小勝:なるほど、その頃から音楽がお好きな人…音楽とか、そういうパフォーマンス…をなさる、そういう方がいらしたという。

小勝:あと、赤坂でお生まれになって、四つのときに中野区上高田に(転居)?

内田:はい。

小勝:ご両親が移られたということで。それと太田市美術館・図書館の(学芸員だった小金沢智さんによる)インタビュー*で、都会のただ中で育ったとおっしゃってたんですが、そういうようなことは、その後の今の画家としての制作に何か影響は…
(*「現代日本画へようこそ」出品作家インタビュー②内田あぐり 太田市美術館・図書館 2018年)
https://www.youtube.com/watch?v=v80rQnUdqtQ

内田:影響あるのかな?

小勝:当時、太田市のインタビューの中で、「雑踏の中の美」ということをおっしゃっていた…

内田:もう新宿がすぐ近かったものですから。新宿駅が、今あんなになってしまったんですけど、昔は日本家屋の瓦屋根の素敵な駅だったんですよ。その頃から知っていて、風月堂とか、何かヒッピーとかフウテン族とかのそういう文化、カルチャーがある中の青春でした。

小勝:なるほどね。そういう中でやはりアート的なことに興味を持たれた?

内田:どうだったんでしょうね。その後でも、大学生になってから割と私の身近に、編集者とか何かそういう友達が、ずっと長く付き合ってるのがいて、連れられてゴールデン街に行ったりとかして、あとは、あれですね、唐十郎の状況劇場が新宿の花園神社でよくやってたものですから、やっぱりそういうことに興味があってよく友達と見に行ってましたね。

小勝:それはもう大学時代ですか?

内田:はい。大学時代です。

小勝:1969年に武蔵野美術大学造形学部日本画学科に入学されるわけですけれども、そもそも日本画を選んだ理由というのは?

内田:日本画を選んだ理由っていうのは、美術の教科書にほとんど西洋の美術しか載っていなくて、普通は油絵かデザイン科に進むみたいな感じじゃないですか。

小勝:はい。

内田:その美術の教科書の一番最後のページに、もう半ページだけモノクロームで日本美術が載ってたんですね。

小勝:はい、それが半ページ!?

内田:本当、一番最後にちっちゃく、俵屋宗達の《風神雷神》とか、あとは長谷川等伯の《松林図》とか、あとは何でしたっけ。雪舟ですね。

内田:いったいこの絵はなんなんだろう、というところから始まって、誰もそれについて教えてはくれなかったんですよね。たまたま高校時代の美術の先生が女子美の日本画を出られた先生で、何ですか、よく墨で、何て言うんでしょうね、植物を描かされていて、その植物を描いたのをご覧になって「線が綺麗で面白いね、油より日本画の方が合ってるかもね」みたいなことは、おっしゃってくださったんですね、先生から。そう言われたこともあって、日本画を意識するようになったんですけど、でも日本画ってどういう絵画か教えて貰わなくて、だったら自分には全然わからないし、誰も日本画のこと知らなかったから、そういう勉強してみようかなと思って、日本画を選んだのがきっかけです。

小勝:なるほど。それで、毛利武彦先生と麻田鷹司先生が、指導教授ですか?(*毛利武彦 もうりたけひこ(1910-2010)日本画家、創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授。麻田鷹司 あさだたかし(1928-1987)日本画家、創画会会員、武蔵野美術大学教授。)

内田:そうですね。塩出英雄先生もいらしたり、院展の奥村土牛さんのお弟子さんで、「しおで」と書くんですけれども。(*塩出英雄 しおでひでお(1912-2001)日本画家、院展同人、武蔵野美術大学名誉教授。 奥村土牛 おくむらとぎゅう(1889-1990)日本画家。院展理事長。芸術院会員。)

小勝:はい。

内田:あと、塩出先生が主任教授でいらっしゃって、その他に、非常勤のいろいろな先生がいらっしゃいましたね。

小勝:なるほど。特にもう、どの先生につきたいっていうわけではなく、入学してからお会いになったということ。

内田:そうです。武蔵美って、何かゼミみたいな感じではなくって、全員の先生方が、満遍なく見ましょうっていう、そういう教育だったみたいで。ひとクラスが20名しかいなかったものですから。

小勝:何か、えーと、それも太田市の美術館のインタビューですが、その日本画を希望する学生が少なかったんで、倍率が低かったと…(笑)

内田:そう、いやそれが一番ありますよ。2倍だったんですよ! (笑)油絵は30倍とか40倍とかデザインも同じぐらいで、日本画は本当だ〜れもやる人がいなかったから2倍。それも大きな原因ですね。

小勝:ただ、武蔵美を特に選ばれたわけですか。

内田:そうですね。芸大の試験に石膏デッサンがあって私はそれが嫌いで、予備校に通ってたんですけど、石膏デッサンをするとなんか全部自分に似てしまって、何枚書いても上手くならなくて(笑)。もうそれでもう、大嫌いになったんですよね。だから芸大は受験しなかった。

小勝:あぁ、そもそも高校出られてから浪人されたわけですか?

内田:そうですね。高校3年生にちょっと予備校、お茶美に入ってたんですけど、一浪しました。

小勝:はい、多摩美とか他にもいくつか(受験された)?

内田:多摩美はね、行きたくなかった。何故かわからない。何でしょうね〜 (笑)、 何だかわからないですけど…受験していないです。

小勝:何でしょうね〜 (笑) それこそ女子美とかは?

内田:一応女子美は女性だけだったから…

小勝:やっぱりつまらない、みたいな?

内田:高校が女子高だったものですから、どうもそこから抜けたいなっていうところがあって、武蔵美しか受けなかった。教育実習に武蔵美の学生の方がいらして、その方が本当、素敵な女性だったんですね。やっぱり素敵な女性画家にすごく憧れるじゃないですか。

小勝:そういう出会いって重要ですよね。

内田:そういうのがあるかもしれない。

小勝:なるほどね〜。それで何人もの先生が、あの錚々たる先生方がいらしたそうですが、何か特に影響を受けた先生とか、教えとかありますでしょうか?

内田:麻田先生と毛利先生は特に、講評の時とか色々と教えていただいたっていうか、何かお話していただいたりとかして、麻田先生は、「絶対僕は弟子は持たないから」って、そういう主義だったんですよね。だけど来るものは拒まずという先生だったので、時々、勝手に先生のお宅に押しかけてって、ちょっとお話だけでもみたいな…

小勝:あ、すみません、そもそも男女比はどうでした。

内田:男女比は圧倒的に女性。

小勝:あー、そうですか。  

金、川浪:へ〜。

内田:20人のうち男性が5、6人しかいなかった。今でも女性の方が多いですね。

小勝:そうですか、はい。それは日本画学科に限ったことですか ?

内田:そうですね。

小勝:なるほどね。

内田:彫刻はほとんど男性で、油絵も、まぁ、7割8割は男性でしたね、日本画は、あれなんですよ。あの〜、当時は花嫁修行のひとつと言われてた。

小勝:やはりそういう感じが残ってるんですかね。

内田:その時に、受けるとき言われたんです。 「いいですね、日本画するんだったらもう本当いいお嫁さんになれますね」みたいな、はっ?(笑)

金:「美術やるんだったら日本画なら大丈夫」と。美術を勉強しに行くなら日本画なら行かせるとか、あと刺繍科。

小勝・川浪:わ〜!

金:今の女子美術大学、昔の女子美術専門学校でも、ああいうのは、いいけど。

小勝:それは惠信さんの世代の人が?

金:ちがう、植民地時代の話。花嫁修業になるから、女の人は、油絵は駄目だけど、日本画は教養。

小勝:それはまさに、日本人もそう。

金:同じ、その頃?

小勝:戦前の時代。

金:そうなんですね。 

小勝:そうです、そうそう。だから三岸節子とかも最初は、(絵を習いたいなら)「日本画を勉強しろ」って(親に)言われて。でも「いやだ、私は油絵を勉強するんだ」ってハンストまでして抵抗して、やっと両親から許しを得て、油絵が学べたみたいな…(*三岸節子 みぎしせつこ(1905-1999)洋画家 女性洋画家として初めて文化功労者となる)

小勝:でもそれが、内田さんの世代までもというのは初めて伺いました。

内田:当時の世間的にもやっぱり女性に対しては何かそういう風潮だったと思う。

小勝:つまり あのまぁ、花嫁修業的な、今日の教養的なものなんだから(という)。それと実際にはどうなんでしょうか、15、6人いた女性の同級生で画家になろうと思って頑張ってるみたいな人は、ほかにもいらっしゃいましたか? 内田さん自身は画家になろうと思ってらっしゃったわけですか? 

内田:そうですね、画家というものがよくわからなかったんですけど、母が「何か自分の一つ確かなものをずっとやりなさい」って自分の仕事を持ちなさいっていう、そういうことを結構小さい時から言われていて。

小勝:そうですか、はい。お母様自身は主婦だったんですよね。

内田:主婦なんですが、いろいろと工芸の彫金作りとか、人形を作ったりとか、それを本当に趣味でやっていた人で、自分も何かそういうことをやっていきたかったのかもしれないですね。

小勝:なるほどね。

内田:女性もこれからの時代は自分で何か確かな仕事、手に職をつけるっていうわけでもないですけど、一人でも生きられる道を選んでいった方がいいってことを言われて、それでやっぱり美大に進ませてくれたんだと思いますけど。

小勝:そもそも、その美大に進むことについては、ご両親からは特に反対とか全然なかったんですか?

内田:そういう考え方だったので。

小勝:なるほどね、はい。すみません、それで先ほどの質問ですが、同級生の人たちは、どんな感覚だったんですか?

内田:同級生たち、その当時のクラスメイトの女性たちも本当みんな優秀で、いい絵をバリバリ描いてたんですよ。だけど、土屋禮一さんの奥さんになった人が私のクラスメイトで結構仲良くして、彼女は土屋侑美さんっていうんですけど、本当にすごいいい絵を書く人で、絵描きになるんだろうなって思ってたんですけど、そしたら土屋さんと結婚なさって、ご自分はやっぱり絵を描かないようになって。(*土屋禮一 つちやれいいち(1946年生まれ)日本画家、日本芸術院会員、日展副理事長、金沢美術工芸大学名誉教授)

内田:あとは、私のクラスの女性たちは、日本画家と結婚した人が多いんですよ。あともうひとり、松下宣廉さんって多摩美の教授だった日本画の。とても良いお仕事をなさっている。

小勝:調べてみます。松下ですね。松下宣廉さん、その方と結婚した… (*松下宣廉 まつしたせんれん(1946年生まれ)日本画家 元多摩美術大学教授)

内田:やっぱりすごく彼女がいい仕事をしたのですが、松下さんを尊敬してたから、すごくいい作家なので。だからでしょうか、結婚したら描かなくなくなりましたね。

小勝:なるほどね、そうやって優秀な同級生が…

内田:もう一人か二人がとにかく日本画家とみんな結ばれたんです。うん。私のクラスって不思議なんですけど、描かなくなって。

小勝:それこそ一つの家に二人の画家はいらないという感じですかね?

内田:どうなんでしょうか。詳しくその辺聞いたことないんですけど、やっぱりご主人を尊敬してたから、だからやっぱり自分は内助の功的にっていう感じでしょうかね。

小勝:そういう価値観、判断で、まだね〜。

内田:ええ、そういう時代でした。ただ女性に限らず、男子学生も学生時代にとてもいい絵を描く人が、卒業後は描かなくなったりと、大体は経済的な理由からだったのかな、私が教員になってからもそうした学生たちはいましたね、もったいないなーと。

小勝:はい、それで内田さんは、まず最初に1970年の、これは自画像ですか?《女Ⅰ》というのは?

内田:《女Ⅰ》、その左下にあるそれです、はい。(『内田あぐり―化身、あるいは残丘』展覧会図録、武蔵野美術大学美術館・図書館編、国書刊行会、2019年のp.112、cat.no.70_03)

小勝:これは自画像?

内田:それ自画像なんですけど、はい。

小勝:あぁ、そうですか。

内田:その辺ずっと自画像ですが、母をモデルにデッサンをして、自画像に重ねて描いた作品もあります。
あとその左下のこれは姉を描いたりとか。この頃は大学紛争で武蔵美も授業がなくて、家で絵を描いていました。(前掲図録、p.113,cat.no.72_01《異端》)

小勝:なるほど、こちらのその《女Ⅰ》が新制作の日本画春季展に初入選したそうですが…

内田:はい。

小勝:まだ学生になったばっかりで。

内田:大学2年の時で。

小勝:ひじょうに早いですね。

内田:早すぎて、研究室に始末書書けって言われました。

小勝 え〜、どういうことでしょう。

内田:いや、なんかその頃は、まだ学生、大学2年生3年生のときは、そのコンクールっていうか公募展には出しちゃいけないっていう、何かそうしたルールみたいなのがあったらしいですね。

小勝:研究室でそれをご存知なかったんですか?

内田: そんなのだって誰も言わないですよ、教えてくれない。

小勝:そうですよね。ええ。

内田:別に誰に言われて、新制作に出したとかそういうのもなくって、ただ自分の好きな絵ができて麻田先生とか、毛利先生とか(新制作に所属する)他の作家たちも好きだったから、ちょっと出してみようかなと思ったら入選しちゃって。(笑)

内田:はい。そういうことを研究室の塩出先生から言われて始末書を書こうかなと思っていたら、毛利先生が、「いや、おめでたいことだから、始末書ぐらい書けよ」とかって言われて 「そうですね。」って。でも最終的には、始末書、書かなくて済みました。

小勝:(笑)そうですか。

内田:そういう時代、面白いですよね(笑)。

小勝:本当ですね。

小勝:新制作に出したっていうのは、(内田さんの)先生が新制作に出してらっしゃったんですか?

内田:麻田先生と毛利先生が新制作の先生だったので。

小勝:はい、はい。

内田:はい。そういうこともあってよく新制作は見に行っていました。

小勝:そうなんですか。その後はあれですよね、74年は、創画展はこの年第1回で新制作から独立したわけですね。(1948年創造美術結成。1951年新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部となる。1974年新制作協会を離脱し、創画会結成。現在に至る。)

内田:そうですね。あ、そうそう。

小勝:はい、わかりました。それで、初期作品、その後ずっとこういう群像的な女性像が続くわけですが、こちらがすごく評価されるそうですけれども、この独特の、白い肌に墨のたらし込みの技法を使われた…

内田:うん。

小勝:これが麻田鷹司先生からの示唆に基づいたわけですね?

内田:それまではやっぱり人物が好きでどちらかというと硬質な感じの人物、女性像を描いていたんですけど、はい、麻田先生から「もっと、精神的な内面性みたいのが出るといいね、精神の陰影が出るといいね」とおっしゃられて、それでいろいろと、その精神的な陰影って、なんだろうなっていうのをずっと考えていました。

小勝:はい、それが肌のこの独特の表現、これは内田さんのオリジナルですよね?

内田:あっ、オリジナルなんですけど、あの、大学一年生の時に、墨で菖蒲を描く古典の授業があったんですね、線描とそれからたらし込みというものです。その授業がもう本当、古臭くて、なんで私はこんな古臭い授業受けなきゃいけないんだろうって思って、嫌々ながら日本画って窮屈だなと思いながらやっていた、そういう授業なんですけども。麻田先生からそういうことを言われて、大学院の修了制作でふっと墨のたらし込みを思いついたんですね。

内田:墨をちょっといろいろと、やっぱり聞いてみると、もう本当に「墨に五彩あり」とか、なんか墨は本当、墨一色でいろいろなものを表現できるっていうものがわかって、だったら、何かそれを自分の人体の肌に生かせるんじゃないかなということで、胡粉を塗って、その上に墨をたらし込んでいくという、そういう技法で陰影を表して見ようと考えてやってみました。

小勝:なるほど。それで、これらの作品が、武蔵野美術大学大学院の時の制作で。

内田:上が大学院の修了制作で、(金、川浪に図録を渡しながら)私も(図録が)あるので、もしよかったらご覧ください。

金:ありがとうございます。何頁ですか?

小勝:116頁です。つまり評価されたということですよね。第2回創画展で受賞された。

内田:創画会の創画会賞です。大学院の修了制作の優秀賞もいただいて、それで新しいのをもう1枚描いて、《女人群図Ⅰ、Ⅱ》として、創画会の秋(の展覧会)に出したんですね。その時に創画会第2回目の創画会賞をいただきました。

内田:それと同時期に描いたのが《女人図 その一》《女人図 その二》です。

小勝:はい、あの、これらの作品ちょっと私、見てすぐ感じたのは、あの江戸初期の風俗図屏風、女性が何人も並んでいる《湯女図》とか《松浦屏風》とか、ああいうのをちょっとすぐ連想したんですが、その関係っていうのはないんですか?

内田:いや、この作品をみゆき画廊で最初の個展(「内田あぐり個展」1976年5月)で発表したんですけれども、その時に見にいらした美術館の方が、その時に「《湯女図》とか《彦根屏風》が好きなのか?」っておっしゃられて、私、知らなかったんですよ。

小勝:そうですか!

内田:全然知らなくて、それはなんですか? みたいな感じで、それから調べるようになって、湯女図とか彦根屏風とか松浦屏風などの初期風俗図は、今でもすごい好きな作品なんですけども、これを描いた時は知らなかったんです。

小勝:そうだったんですか!それはすごいですね!

内田:下の作品(《女人群像-Ⅱ》)はどちらかというと えーと、画集で見たチマブーエの…

小勝:へー!

内田:壁画があるじゃないですか、どこだったっけ? チマブーエの、あのジョットやなんかが描いている。

小勝:スクロヴェーニ礼拝堂ですか? あれはジョットだけですかね。

内田:イタリアにある…すいません、忘れちゃったんですが、なんかその画集を見ていて、チマブーエもすごく好きだったので。(*チマブーエ《キリストの磔刑》1280年代前半、フレスコ、アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂)

小勝:あっち(西洋キリスト教美術)だったんですか?

内田:その頃から初期ルネッサンス絵画が日本画に似ていると感じてました。上(《女人群図-Ⅰ》)は違うんですけど。

小勝:なるほどね。

内田:群像の人間像は、武蔵美の友達にモデルになってもらって。

小勝:あぁ、そうですか。

内田:油絵科の友達で「ちょっとちょっと、モデルしない」とかって、かわいい子がいるとよく引っ掛けて、家にきてもらいデッサンしていました。

小勝:それとほかのところでは、横田基地…そもそもこの年(1975年)にご結婚もされてるんですね。ご結婚されて、西多摩郡瑞穂町ジャパマハイツという旧米軍ハウスにアトリエを構えて。

内田:はい。ネズミが出るハウスに。

小勝:そこの横田基地に集まってくる若者たちをモデルにしたみたいに履歴に書かれていますが。

内田:それがその次ぐらいにある。この辺もそうなんですけど、え〜と、ここらへんの女たち、これもそうですよ。18歳の。チビちゃんと言う女性をモデルにした絵です。(前掲図録p.122-123。Cat.no.77-05《横たわる人》1977年)

小勝:横たわる女たちのシリーズ。

内田:これとかはもう、家のまえのハウスになんだか共同生活みたいにしているような女の子たちにモデルやって〜みたいに。(前掲図録p.125。cat.no.78_4《女たち》1978年)

小勝:そもそもこの時代は、最初から自画像でらっしゃるそうですが、女性ばっかり描いてらっしゃるのは何か、どういう理由があるんでしょうか?

内田:いや〜、別に何も理由はない。

小勝:描きたいのが女性だった?

内田:その時代の、あの女性たちの顔が、個性的だったんですよね。それぞれしっかり自分の顔を持ってる女性が魅力的だった。

小勝:お〜、そうですか。

内田:なんか割と骨格もガツっとしてるし、美人じゃないんだけども、自分の顔をしっかり持ってるっていう、女性たちがすごく多くて。

小勝:そうなんですか。

内田:やっぱりそっちにすごく興味がいきましたね。男性にはいかない。女性をモデルにして描いて、デッサンはいつもやってるので、家に来て女性を目の前にして、デッサンするじゃないですか、色々と話をしていると、なんかすごくわかり合えるというか、なんだろうな、安心するんですよね、描いていても。だから、やっぱりそういう魅力を感じて、女性だったのかもしれない。

小勝:なるほどね。

内田:ですね。

川浪:やっぱり70年代80年代に、描きたいと思う女性の顔に出会ったと。

内田:そうなの。今から思うと、一人ひとりの女性たちがみんな違う顔をしていた、髪の形も、ファッションも。内面性が滲み出ていてるように感じたんでしょうね。

小勝:あぁ、そうですか。はい、そもそもね、自画像を最初から描かれていたとおっしゃいましたけれども、この72年の自画像(《自画像》1972年、cat.no.72_05)は、最近いろいろなところに出品されていますが、これも本当にご自分の顔を持っている女性ですね。

内田:なんか今ね、今はすごく優しい顔になってるけど、その70年代は、なんかすごい突っ張ってて〜

小勝:うん、うん。

内田:もう「内田あぐりに近づく時は、 俺なんかズボンのベルト締め直すんだ」みたいな感じで、後輩の男子に、冗談ですけどね、言われたことがある。
(爆笑)

小勝:そんな怖いひとだったんですか?

内田:え〜、なんか喋れなかったんですよ、あんまり、いろんなことが。いつも黙ってて、もっと痩せててゴツゴツしてて、何か尖ってたんですね。なんかいろんなことや時代に対して、昔は尖ってますよね。

小勝:昔は、若い頃はねー、ある程度はね。

内田:若い人はね(笑)

金:やっぱりそうすると、ご自分を映すような感じでそのモデルに選びたいって思う、女性の顔とかを。

内田:そうは意識はしていなかったんですけど。やっぱり自分の顔をしっかり持っている女性たちを描きたかったっていうか、特に基地の周辺に住んでいる社会からドロップアウトしている若い女の子たちは独特なんですよ、武蔵美でも油をやってる女の子たちとかは、なんか自分の顔をしっかり持ってるんですよね。

小勝:あの、一方で、この時、結婚されて78年に長女亜里さんをご出産されたそうなんですが、そういう結婚とか、またお子さんが産まれたりとか、そういうことは制作にどういう影響が(あったでしょうか)。まあ、物理的に、ひじょうに時間も取られるでしょうし、子育てとか。

内田:1978年に出産をして、1980年頃かしら、離婚したんですよね。

小勝:あー、なるほど、ええ。

内田:夫が版画家でやっぱり収入が全然なくて、で、離婚をして。

小勝:あ〜あ、同級生っていうか武蔵美の方ではなかったんですか?

内田:武蔵美のちょっと上なんですけど、版画家なんですね。

小勝:お嬢さんを出産した後、離婚されたんですね。

内田:子供が3歳か4歳ぐらいの時なんかで…

小勝:中野区上高田に転居っていうのはご実家に戻ったということですか?

内田:実家ではなくって近くの元インド大使館の宿舎を借りて、子供と2人で住んでましたね。

小勝:失礼ですけれども、本当に経済的に、そしたらたいへんかと思いますが。

内田:ですね。もうずっとたいへんでした、はい。

小勝:ずっと、武蔵美の先生になられるまで、内田さんの収入で。

内田:あ、もちろんそうです、ええ。そうですね、養育費ももらってないし(笑)。 いや、そんなん「いらないわ」みたいな感じで。

小勝:いや〜あ、それは大変だと思うんですけど、具体的にどういう…絵を描いての収入っていうのは?

内田:もう無理、でも、この当時の胡粉の上に墨のたらし込みの人間像を描く作品を、すごく好きだっていうふうに言ってくださる方がいて。コレクターの方もいて、たまに作品を買ってくださることがあったんですね。救われましたね、作品を持っていただけるなんて。でもそれはもう臨時収入みたいなもので、生活をしていくためにはやっぱり働かないと。

小勝:ですよね。ええ。

内田:はい。

小勝:絵以外の仕事も。

内田:もちろんいろいろフリーターで、アルバイトで。

小勝:あ、そうですか。

内田:はい。ただなんか私はすごく人に恵まれていて、そのコレクターの方が岩崎さんとおっしゃるんですけど、コートギャラリーあるじゃないですか。国立の。(*コート・ギャラリー国立 https://www.courtgallery-k.com/

小勝:はい。

内田:あそこのオーナーだったんですよ。もう亡くなられたんですけども、前は立川に大きなビルとか、地主さんだったんですけども、その方が少しずつコレクションしてくださって。すごい良き理解者でもあったんですけども、ご自分もすごく絵が描きたいとおっしゃって、「僕の持ってるビルの上に一室空いてるんだけど、そこで何かデッサンの教室をやらないか」って言われて、それで岩崎さんの、岩崎ビルの上で1週間に1回か2回ぐらい、デッサンのクラスとそれから日本画のクラスをやったんですよ。当時はカルチャーセンターとかまだなくて、本当に珍しがられて。

金:趣味で習う方たちですか?

内田:そうです。中には美大卒業したての若い画家志望の人たちもいて、彼女は今は活躍していますね。

小勝:なるほど、それは一番いいですよ。画家にとってね。

内田:そうです。そことそれからカルチャーセンターと中高の非常勤講師を掛け持ちして、経済生活は、やっていました。

小勝:なるほど、それは本当に全く絵と関わりのないアルバイトではないので(いいですよね)。

内田:そうですよね。立川の絵画教室は、わりと年配の男性たちとか女性たちがいっぱい来られていて、私はそこですごく社会勉強させてもらったんですよ。美術の世界しか知らなかったもんですから、何かそういう中でいろいろな方たちと出会ったことが、私はすごく良かったかなって。彼らに育ててもらったんですね。私にとっては貴重な経験の一時期でしたね。

小勝:なるほど。それが80年代ぐらいですか?

内田:そうですね。ずっとやっていて、武蔵美に非常勤で勤めててもやっていて、ここに引っ越してきたのがいつだっけ?

小勝:えっとですね、90年とありますが、年譜によりますと。

内田:あ、そうですか。90年直前までやってましたね。その国立の教室を。立川の教室はその後、コートギャラリー国立に移り、現在は後輩が運営をしてくれています。

小勝:あ〜なるほど。90年にこちらに引っ越した理由は何なんですか? ここのまさにこの場所ですか?

内田:この場所は、近くに親戚がいたりとか。

小勝:なるほど。

内田:わりと小さい時に葉山の親戚の家によく遊びに来てたりとか。両親と一緒に住まなきゃいけないっていうことで、もう年とったものですから、両親が。中野の家が少し手狭になって、絵を描く場所もなくなってきたので、じゃいっそのこと。

小勝:ご両親と一緒に?

内田:はい、ずっとここで両親と一緒ですね。両親と私と娘で一緒に暮らしてました。

小勝:なるほど。あの先ほどのね、亜里さんがお生まれになって、子育ても大変だと思いますが、逆に。でも、タイムラグがありますね、78年に生まれて。でもその時は、近くに中野にご両親がいらっしゃるので。

内田:はい、やっぱり近くにいないと子供が小さい時に、自分が仕事をして何かあったときに見てもらわないと。

小勝:やっぱりそうですよね。

内田:保育園に行ってたんですけど。仕事で夜遅くなる時や病気した時は助かりました。

小勝:それではずっとご両親が近くにいて、いざというときは見てくださったという。

内田:そうですね、はい。

小勝:はい、それは恵まれてますね。

内田:そうですね、本当にそれがなかったらできなかったこともあります。

小勝:そうですよね。それで女性をモデルにするのがお互いに共感し合ってというか、安心できるとおっしゃってましたが、84年に初めて男性が出てくるんでしょうかね?(《人びと》、《男》、《ロマノフの海》など、前掲図録pp.152-153)

内田:はい。

小勝:これはどういう心境の変化なんでしょうか? 男性のヌードが、しかも。

内田:そうですね。

小勝:《人びと》というのは、この前、佐喜眞美術館(の個展)に出してらっしゃるんですよね。これは男女がヌードで、女性が横たわって男性が座っている。(図録cat.no.84_02)(*「内田あぐり 在Existence」展 佐喜眞美術館、2022年)

内田:はい。

小勝:もう一点は、男性が横たわっているという。(《男》1984年、図録cat.no.84_03)

内田:はい。その男性は、ずっとデッサンさせてもらっていて、モデルを大学の時からもやってくれてた古澤栲(たく)さんっていう男性なんですけども、すごく仲良くしてて。で、パフォーマー、舞踏家なんですね。(*古澤栲 ふるさわたく(1947-2018)本名 古沢 守。旧芸名は古沢宅、古澤宅、古澤栲。自宅の庭を「庭劇場」と名付け、月に数日、首吊りパフォーマンスを公開した。2004年に「首くくり栲象」に改名。)

小勝:なるほど。「タクさん」というデッサンを描かれていましたよね。
タクさんというのは、どういうのは、どういう字でしょうか?

内田:こういう字だったかな。「栲」

小勝:難しいですね。

内田:手偏に.. 木偏だったっけな? 木偏に考える。
あのう、何年か前に死んじゃったんですけど、晩年に活動してたのですが、最後の「首くくり栲象」って知りませんか?

川浪:知っています、はい。あの人ですね。

小勝:そうなんですか。

川浪:いや、だから「栲」って字、どこかで見たと思った。

内田:そうそう、そうなんですよ。あの自分の家の庭の木で、首をね、吊ってたという。

小勝:それはパフォーマンスとして?

内田:パフォーマンスというか身体表現者でしたね。彼はもう若いときからやっぱり首を括る、そういうパフォーマンスをしていて、私も何回か見に行ったことがあるんですけども。まだその時は首くくり栲象という名前ではなくて、普通のその、古澤栲でやっていたんですね。

小勝:はい。

内田:ずいぶん彼と話をしたりとかして、いろいろと彼から影響を受けてる部分もあって、それで描きたいと思ったということもあるのと。あとはもうその時から、女性が、自分の顔を持ってる女性が、ちょっと私は見つからなくなってしまって…
ちょっと女性に対して、あまり描くことに興味がなくなってしまったっていうのもあります。男性という、もう胸も何もお尻も何もない、一つの肉体みたいなのを描いてみようかなと思って描いたのがきっかけ。

小勝:ただひじょうにいわゆる男性像っていうと、ちょっとマッチョな感じを思い浮かべるのと対極の、弱々しい、あのそれこそ性器もそのまま晒して、横たわる女性ではなく横たわる男性になってるわけですけれども、それはその古澤栲さんっていう方から受ける印象を、そういうものとして描こうとしたんですか?

内田:そうですね、そのままですね。彼はマッチョをむしろ否定していて、内面から出る肉体の強さを目指していましたね。自分の肉体を違う方法、例えば日雇い肉体労働や、リヤカーを引いて歩いて鍛えていましたね。そうしたところも好きでした。

小勝:この《ロマノフの海》という作品(図録cat.no.84_04)は横たわる男性の、言ってみれば死体にも見えるようなものがいく人も描かれているような感じですが、これは何を込められたんですか?

内田:それも全部、古澤栲さんがモデルで、エスキースやデッサンをたくさんして、それで、その時、タイトルが先に浮かんできたのかな? なんか古澤栲と話をしていて、舞踏の評論家の芥正彦っていう人が古澤栲の舞踏を見て、「お前はまるでロマノフの海みたいだ」って俺、言われたんだって話をしてて…(*芥正彦 あくたまさひこ(1946年生まれ)俳優、劇作家、演出家、舞踏家、詩人、音楽プロデューサー。劇団ホモフィクタス主宰者。本名、斎藤正彦)

小勝:どういう意味なんでしょう、「ロマノフの海」って?

内田:ロマノフ王朝、もう長い間、動乱の時期だったじゃないですか。どういう意味でロマノフが出てきたのかわからないんですけど、そのロマノフの海っていう、非常にその言葉が印象的で、何かそこからすごくイメージを受けて描いているというのもあるし、あとはそれまでの胡粉の上に墨をたらし込むっていう人間像から少し逸脱して、人体のフォルムを解体したかったっていう…

小勝:なるほどね。こちらの、あのひとりで横たわってる時は、まだたらし込みが(使われている)。

内田:もう最後ぐらいですね、それはね、そうですね。

小勝:なるほど。

内田:ずっと同じ、胡粉の上に墨のたらし込みで人間を表現してることが、自分で限界を感じてきたというか。同じことをやることに慣れてきてしまって、もう少し違う表現で人間像を描けたらいいなっていう、ちょうど、転機だったのかしら、悶々としていた時期。(笑)

小勝:はい、それ以後、何か風景と女性を組み合わされたような、これは「生」のシリーズ(《生の空間》、《生の回帰》、《生の果》、《生の残像》、《生の断層》など1984~1990)。

内田:そうですね。その頃は悶々としてましたね。なんだかねどうしようかなと思いながら描いて。風景の中に出て、自然のフォルムを良くデッサンしていました。この頃から漠然と風景と人間のフォルムを考えていた時期ですね。

小勝:それでも描いて創画展にずっと出品をされていたわけですね。

内田:はい。90年代に。

小勝:はい、それで、80年代後半の悶々とした時代を経て、90年代も続けられた中で、「地」のシリーズ(《地の啓示》、《地の宴》、《地の鼓動》、《地への礼賛》1991年)というのが91年ぐらいから出てきますが、このあたりでちょっとまた転機のような感じがあったそうですよね?

内田:そうです、はい。人体を解体していこうという、そういう意識が出てきて。

小勝:なるほど。

内田:トルソになったのは、もう顔とか、腕とかもなくても別にいいじゃないかみたいな、なんかそういう発想で、描いてみました。

小勝:この「地」のシリーズは女性、裸婦とトルソの組み合わせもそうですが、トルソの、人体もやっぱり女性なんですか?

内田:その時はでも、男性をよくデッサンをしてましたね。

小勝:なるほどね。

内田:はい。それをデフォルメして、だんだんトルソになったんだと思います。

小勝:はい。それで、92年に日本橋三越で個展を開催されて、同じ年に創画会の会員になられたと。

内田:そうでしたね。はい。

小勝:この地のシリーズがやはり評価されたということでしょうか?

内田:そうですね。

小勝:それからその翌年に、なんかいろいろまた、激動といいますか…93年の1月から3月に文化庁派遣芸術家在外研修員でフランスとか、あの他にも。

内田:フランスとあとスペインとフランスの国境のあたりと、あとイギリスですね、はい。イギリスの少し上のケルト文化を見に行ったりとかしてました。

小勝:何か(在外研修は)「西洋における人体表現の研究」というテーマでいらっしゃったそうですけれども、この(海外での研修)経験っていうのが、その後の90年代後半の作品の展開にどういう影響を及ぼしたかっていうのは…?

内田:そう、どういう影響かな(笑)

小勝:でもあの、3ヶ月間そういったいわゆる絵画技術や人体表現の蓄積のある海外に行っているっていうのはすごく大きな経験だったと思います。

内田:そうですね。

小勝:特にロマネスク彫刻を見たいとおっしゃってた…

内田:そうですね、この頃ね。パリを拠点にしてたんですけど、ひとつ大きなことは、パリで山種美術館賞展にノミネートされていて、それで「いやまぁ、私、パリ行くから出せない」と言ったら誰かに怒られたんですよね。草薙奈津子さんだったっけな?「そんなことないでしょ」って言われて、しょうがないと思って。

内田:で、パリにしばらく滞在をして、それで向こうの材木屋さんで材木買って、パネルを自分で作って、宅急便で紙とかを取り寄せて、絵具や膠、筆は最小限持っていってました。で、描いた作品を、当時どうやって送ったらいいかわからないので、自分で木箱とか作ってぐるぐる巻きに梱包して、楽しかったですよ、梱包。送るのに10万円かかったのかな、当時の費用で。10万円で高いなーとか思いながら送ったんですよ。それでやれやれと思って、その後はもうほとんど、フランスの地方をぐるぐる放浪して歩いて。

内田:ロマネスクの建築や回廊、壁画を見たりとか、あとは、ロマネスクの一番見たかったのは、ペルピニアンの近くにあるフノヤールっていう、小さな村なんですけど、ロマネスクの壁画を見たかったんですね、大地に生きるような逞しい聖母子像と受胎告知が描かれている壁画なんですけど。本当にこんなちっちゃな図版で、何かで見つけて、どうしてもここに私は行きたいということで、それを目指してぐるぐるいろんなところを歩いて、まぁ、やっとたどり着いて。当時は地図だけが頼りでしたからね。そこに行ったらフノヤールの聖母子像っていうのは、ピカソとかブラックも訪れていて、そこからキュビズムが発生したっていうのを、そこの博物館に行って、初めて知ったんですよ。本当にちっちゃな村で、どうってことない村なんですけども。ピカソもここに来てたんだと、感慨深かったです。そうした古典の作品から影響されて、新しい仕事って産み出されるんだなとすごく感じて。で、人間像をもっと解体して行ってもいいんだなと、それでも人間なんだなと…
(*サン・マルタン・ドゥ・フノヤール礼拝堂。Chapelle Saint-Martin-de-Fenollar 9-11世紀に建設されたロマネスク建築。壁面のフレスコ画は12世紀)

小勝:それともうひとつ、中学3年の娘さんをこの研修にずっと伴われたという、これ、学校とかは?

内田:休学ですね。

小勝:大丈夫だったわけですか?

内田:和光の中高一貫に行ってたので、和光はすごく理解がある学校で、一応話をして、卒業式だけは帰りたいって言うので、ひとりで卒業式に帰らせて(笑)。ずっとフランス語を勉強させて(笑)、「買い物するときは、なんか数だけ数えろ」とかって、私、言って連れて行きました(笑)。

小勝:なるほど、助手として。

内田:記録の写真も撮らせたりと、助手ですね。

小勝:娘さんご自身は、喜んで一緒に行ったわけですか?

内田:そうですね。それはもう、うん。行きたいって。

小勝:そうですか、それはよかったですね。娘さんは今、写真家でらっしゃいますが、この辺の経験がやっぱり、その後に(役に立って)…

内田:なってるみたいですね。ロマネスクをぐるぐる見て歩いたこととか、向こうでちょっとフランス語勉強したこととか。美術館いっぱい行って、作品見たこととかが、そういうことが基になっているみたいな、感じですね。

小勝:はい、それは本当に良かったですね。それと、戻って来られて3月に《復活の宴》(1992年)が文化庁買い上げになって、それとそのパリから送った《地への廻廊》が山種美術館賞展の大賞を取られた。素晴らしいですね。

内田:なんかびっくりしましたね。《復活の宴》はその後に東京国立近代美術館の所蔵となり、今展示されているみたいです。

小勝:それとともに4月から武蔵美の助教授に就任されたんですよね。いいことがどんどんどんどん押し寄せて来たようですね。

内田:思いがけなく、当時教授してらした那須勝哉(なすかつや 1936年生まれ、日本画家)先生が、その時、私、ロンドンに滞在してたのかな、ロンドンの滞在先に電話かかってきて、それで「あぐりさん、さあ、なんか今非常勤なんだけどさ、助教授とかやってくれないかな」っていうので、「え〜、でも今まで以上働くのは嫌です」とかって(笑)、電話でそんなやり取りをしたら、「大丈夫、絶対に1週間に2回ぐらいだけでいいからって、非常勤と何も変わらないからって」(笑)。 これ夢のような話で。何もしなくていいからみたいな感じで。

金:当初はそうだったんですか、本当に? 1週間に2回だけで。

内田:内緒ですけど、2回でよかった。でも本当は3回、3日行かなきゃいけないんですけど、それをなんか2日で、うん、やるみたいな感じで。でも私だけじゃないですよ。みんなそう。

金:みんなそうだったんですよね。

小勝:そうなんですか。

金:昔の大学の教員、美大じゃなくても、授業のある日だけ(出勤する)。

内田:そうそう、他の日は自分の研究や制作をしているという。

金:うちの父親も大学教員だったんですけど、それこそ、週に1、2回しか行ってないよ。だから、夫が家にいない方がいいから大学の教授と結婚しちゃ駄目だと言われて(笑)

内田:2回、3回、それで2回ですね、うん。でもやっぱり会議に駆り出されたりとか、あとは、なんだろう受験の…

金:入試?

内田:そうですね、入試はしょうがないけども、2回どころか何回も出校してすごく大変でしたね。

金:でもそれも他の正規職に比べると毎日出勤じゃないから。

小勝:そう、でもとにかく拘束時間が短くて、かつ定収入が確保されたっていうのは…

内田:そうです。良かったですよね。もうね、その時あんまり実感なかったんですよね。はい、みたいな感じで。

小勝:もうそれまでは非常勤講師として、そうですね。

内田:2年間ぐらい非常勤で葉山から通ってました。

小勝:はい、はい、なるほど。

小勝:それで常勤になったので、一時、国立とか国分寺市にも転居されたわけですか?

内田:えーとしばらくここから通っていたんですけども、父がちょっと体調悪くして、すぐ亡くなったんですね。私がフランスから帰ったらすぐに。それで母はもう年をとってきてひとりで残しておけなかったのと、あと娘が、美大を受験するっていうことで、それだったらば、大学の近くに越さないと、ちょっとまずいのかなっていうことで、しょうがなくて、大学の近くの国立に引っ越しました。

小勝:そうだったんですね。

内田:母と娘を連れて。

小勝:そうだったんですね。この家はそのままにして。

内田:そのままにして、私の後輩の女性たちがもう本当に安く借りてくれて、ここをアトリエ代わりにして描いて、2人か3人ぐらいの交代で、維持してくれて助かりました。
そのうちの一人が今、沖縄の久高島に住んでいます。

金:あ〜、後輩たちが。

(ここで10分ほど休憩)

小勝: はい、再開させていただきます。
90年代の作品なんですが、トルソが絵画の中で、非常に大きな部分を占めてると思うんですが。これは基本、男性ですかね。

内田: 男性でもあり、女性でもあるという、どちらでも良いと考えていました。

小勝: そうですよね。

小勝: 98年頃から、「肉体」シリーズですか。

内田: はい、肉体そのものを追求してみようと思ってました。

小勝: まさにそうですよね。それで《吊された男》シリーズになっていくわけですね。この《吊された男》99年のもの(作品)が、ステーションギャラリーの賞を取られたんですよね。

内田:現代の、絵画の展覧会。東日本鉄道財団が主催している。1回しかやってないんですよね。いい展覧会だったのに。(*「現代日本絵画の展望」展、東京ステーションギャラリー、1999年)

小勝:そうですよね。それで大賞を取られると。

内田:そうですね、何人か3人ぐらいいらして、大賞でなくて「東京ステーションギャラリー賞」という賞でしたね。

小勝:それで2000年になると、今度、その《吊るされた男》のシリーズの中の、《吊された男 #00M》。このMとかTとか、これは何の略なんですか。

内田:このとき、武蔵美に個人研究室があって、個人アトリエをずっと使って制作してた時期なんですね。Mは武蔵美のMです。

小勝:ああ、そうなんですか(笑)。じゃあTとかは?

内田:Tは立川とか。描いた場所をよく、頭文字を使って。

小勝:ええ、なるほど。

金:東山魁夷記念。

小勝:はい。これ(《吊された男 #00M》)が「第1回東山魁夷記念日経日本画大賞」。これを受賞されて。私も実はこの頃から、日本画大賞の推薦委員をずっとやってるんですけれども。

内田:そうなんですか。

小勝:でも、この時期は非常に厳しい審査で。100人ぐらい推薦されて、30人くらいとか?30人もいなかったですかね。非常に厳しい審査だったんです。(42作家47作品が推薦されて、14作品が入選した。「第1回東山魁夷記念日経日本画大賞展」図録、2002年)

内田:そうだったんですか。

小勝:(会場は)ニューオータニでしたか?(ニューオータニ美術館)

内田:ニューオータニの小さな空間で飾られて。

小勝:あそこ(の会場)に入るだけしか、入選しないということで。

内田:ああそういうことだったんですか。

小勝:しかもその中の大賞。第1回。

内田:もう1人いたんですよ、浅野均さん。2人いたんですよ。賞金も半分だった(笑)

小勝:そうだったんですか。なんか揉めたといいますか、具象的なものもあった方がいいとか、何とか。ここに、審査員評で書かれていましたけれど(笑)。ただ、内田さんを推薦された松平修文さんの推薦文は素晴らしいですね。この中の(日本画の優劣を判断する)「基準」っていうのを、冒頭に書かれている、四つあるものが、まさに全部、内田さんにそのまま当てはまる。「日本画の特性が生かされているか」っていうのがまず1つ。岩絵具とか墨とか、顔料とか、筆とかですね。それから「今日の絵画と言えるかどうか」。時代の表現たりえているか。それから、「従来の日本画に囚われないものであるか」。絵とは何かの問いかけがあるか。それから「個に徹し、自分の内面や社会を冷静に見つめ、自分の仕事を深めようとする姿勢があるか」。まさに本当に…

金、川浪:いい文章ですね。

小勝:これまで内田さんのやってこられたことを集約するかのような。その判断基準に従って、内田あぐりさんを推薦するっていう。

内田:すごくわかりやすくて…今なかなかないです、そういう文章は。

小勝:本当ですね。松平さんとは以前から、面識はあったんですか。

内田:えーとね、いつからだったかしら、松平さん…よく展覧会を見に来てくださってて…。

小勝:青梅市立美術館の当時副館長でしたかね。

内田:それで、私がまだ葉山で絵を描いているとき。「地へ」のシリーズのときかな、突然電話がかかってきて。松平さんから。それまでお会いしたことないんですよ。「ちょっと絵、見せて欲しい」って言われて、どうぞどうぞって言ったら、150号と50号の作品がたまたま置いてあって、アトリエに。

小勝:そのアトリエは国立?

内田:ここ。

小勝:あ、ここですか。

内田:ここにいらしてくださって。なんか、「美術館で買うから」とかっておっしゃって。「え?」みたいな。

小勝:そうですか。

内田:松平さんがそうおっしゃって。その2点、買ってくださったんですよ、青梅で。

小勝:それはこの作品より前の話ですか。

内田:そうですね。「地へ」のシリーズで。青梅って、どこかに書いてない?

小勝:はい、見ればわかると思います。なるほど。(《地への礼賛》1991年、181.8×227.3㎝、《地への回帰》1992年、116.7×116.7㎝の2点が青梅市立美術館蔵)

内田:はい。ずっとそれから親しくしててよくお話をしていました。展覧会を見に来てくださったりとか。あとは、独立の桜井浜江さんっていらっしゃいますよね。で、松平さん、桜井浜江さんとすごく親しくしていらして。私、桜井浜江の仕事がすごく好きだったものですから。松平さんが紹介してくださって桜井さんとお会いすることができたり、結構仲良くしてたんですね、桜井さんと。
(*桜井浜江 さくらいはまえ(1908-2007)洋画家、独立美術協会会員。女流画家協会会員。)

小勝:なるほど。私も実は2001年に「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後1930-50年代」という展覧会をやりまして。1930年代から50年代の女性の画家の作品を、日本全国から集めて。その中に桜井さんが当然入っていまして。

金:私もこの展示のおかげで、多くの女性作家を知りました。(笑)

小勝:私もその(準備の)とき桜井さんに初めてお会いして、三鷹のアトリエにお邪魔して。あの竹藪の中をこうくぐって…。

内田:私ね、行ったことないんですよ、まだ。

小勝:ええー。もうアトリエ壊されちゃいました。今、マンションになっちゃいました。三鷹市の桜井浜江記念ギャラリーを一室設けてる、マンションの一階に。(三鷹市桜井浜江記念市民ギャラリー、2022年4月に開設。https://mitaka-sportsandculture.or.jp/shg/)

内田:今でも、記念ギャラリーがあるんですか。

小勝:最近、作ったんです。(アトリエと住居を壊してから)初めて。そのマンションに建て替えて。

内田:じゃあ今度行ってみよう。

小勝:でも全然面影がなくて、当時はあの…写真、ご覧になったことありますか?

内田:ちょっと見たことある。

小勝:竹藪がものすごく鬱蒼としている中を入っていった奥に(アトリエがあった)…。

内田:行っておけばよかった~。

小勝:行っておけばよかったですねえ。

内田:それ後悔してるんですね。

小勝:ええ。なるほど。

内田:すごい好きで。桜井さんご自身はキュートで細くて、少年の様で、いつも黒いパンツススタイルと、バッグも黒のナイロン製だったかな、飾り気がなくてかっこいいんですよね。

小勝:ええ。

内田:よく私、一緒に桜井さんと手繋いで歩いてたんですけど。

小勝:ああ、そうなんですか。

内田:すごいかわいがってくださって。私も黒い服よく着てるんですけども、黒の安いジャケット着てたら、「私これが欲しいから買ってきてよ」って言われて(笑)「わかりました、じゃあ今度持って行きますから」と言ってたら、死んじゃったのかな。本当に晩年だった気がする。ジャケット買っておいたのに渡せなかった。

小勝:そうですか。

金:2007年に亡くなられたんですね。

内田:そうなんですね。

小勝:私がやった展覧会は2001年なんです。

内田:そうだったんですか。知らなかった。

小勝:山形から借りてきました、作品。山形美術館には、まとめてたくさん寄贈されていて。三鷹市美術ギャラリーにもいくつか寄贈されてるんですけど。(三鷹市美術ギャラリーhttps://mitaka-sportsandculture.or.jp/gallery/)

内田:そうなんですね。山形の方でしたよね。

小勝:そうです。ああ、ここで何か不思議な繋がりが(笑)

内田:独立*の中で桜井浜江がすごい好きな作家だったんですよ。(*独立美術協会 1930年創立。現在に至る)

小勝:ああ、なるほどね。

内田:工藤甲人*って先生いらっしゃるじゃないですか、日本画の。工藤甲人にある日突然、「いや内田さんはさ、桜井浜江好きだろう」って言われて、「すごい好きです」って言って(笑)なんか、あるのかなと思って。工藤先生にいきなりそんなこと言われたから。ちょっと嬉しかったんですけど。(*工藤甲人 くどうこうじん(1915-2011)日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授。)

金:作品を見て、そういうふうにお聞きになったのですか。

内田:創画会の会員でいらしたので、私の作品はよく見ていただいてました。

小勝:桜井さんのどのあたりの時代ですか。

内田:青梅で個展をなさいましたよね。だいぶ前…。

小勝:そうですね、少し前ですね。90年代でしょうかね。(「桜井浜江 画業65年の軌跡」展、青梅市立美術館、1995年)

内田:それも拝見したりとか。

小勝:なるほど。

内田:あと、夢土画廊で拝見しました。よくわからない得体の知れないものが、ワーッとこう画面から溢れ出るようで、生き生きとしたフォルムで面白い。(*「桜井浜江個展 画業70周年記念」2000年、夢土画廊、銀座)

小勝:あの、樹であったり、波であったり、山であったりね。

内田:そうそう。それが抽象的に解体されて、自分の形と色になって。すごくダイナミックで力強いじゃないですか。

小勝:ええ。そうですよね。

内田:でも、ご本人は少年のような少女のような方でしたね。

小勝:でも細くていらっしゃるから、すごくシャキシャキしていらして。

内田:そうそう。

小勝:90歳代でも平気で、お1人で栃木県美までいらしたんですよ。(*「奔る女たちー女性画家の戦前・戦後」展オープニングのとき、2001年10月21日。93歳)

内田:そうなんですか。

金:お1人で。すごい。

小勝:その後、「私、この後、山形に行くのよ」っておっしゃって。

内田:ひとりで。

小勝:ひとりで。全然シャキシャキしてらしたんです。

内田:すごい。いくつで亡くなられたのですか。

小勝:100歳目前だったと思います。90代後半。(98歳)

内田:一度、日曜美術館で特集ありましたっけ。

小勝:日曜美術館ではないんですけど、アトリエ訪問みたいな感じの。あの山根基世アナウンサーが訪問して。あれは山形放送局でも作ったそうなんです。素晴らしいですよね、実際にペインティングナイフでガーッと描いてらっしゃるところ。私、あれ授業に使ったりしてました。(*NHK「土曜美の朝」「桜井浜江 自然の生命(いのち)を描く」1998年10月3日、NHK山形放送局「闇の中に見たふるさと 桜井浜江・90歳のカンバス」1999年2月13日)

内田:ああ、そうなんですか。もう一度、その映像を見たいですね。

小勝:女性美術家についての美術史を教える授業のとき。

金:その映像はないな…桂ゆきさんとかはあるんだけど(笑)

小勝:それはお聞きしてすごく良かった。先ほどの松平さんが推薦された《吊るされた男》シリーズあたりからなんでしょうか。あのトルソの部分を、コラージュした身体が裂かれていて、それが紙縒(こより)で縫われている、そういう手法を始められたのはこのあたりでしょうか。

内田:そうですね。

小勝:それは、どういうところから思いつかれたんでしょうか?

内田:人体のフォルムを描いて、それをより自然なフォルムに解体をしたかったっていうことですね。生(なま)の楮紙を部分的にドーサ液で滲み留めをして、その後に墨や水干絵具で描くと、楮紙には皮膚感覚があって、繊維に細かい絵具が染み込む表現が生まれます、その後自在にザクザク切って、描いたフォルムの上にいろいろ置いたりして。きれいに人体を破壊出来たらそれでよしという感覚ですね。

小勝:その身体を(切る)。

内田:身体を。それで、紙をまた貼り付ける前に、もう1回ハサミで切って。絵の上に当てて、いろいろとフォルムを考えながら、その紙と紙を縫って、それを貼り付けるという、そういう作業してるんですけど。

小勝:それが本当に、なんていうか、いわゆる傷。傷の存在を縫うことによって、逆にえぐれている、切られている。傷の存在をすごく強く感じるんですけれども。ご自身としては別にその傷を強調するというよりは、むしろこう、何でしょう、身体の構造を見せる…。

内田:そうですね。縫うことで、人間の体を再生していくという。

小勝:再生のイメージですか、やはり。

内田:人間の体は傷ついたりとかしても、必ず再生をしていくというか、自然治癒力があると思うのですね。そういうイメージがあって。それで新しいフォルムを作って、縫い合わせていくという作業をしているのだと思います。

小勝:縫い合わせるっていうところが、どこから出てきたんでしょうかね。しかも、縫うのは普通の糸じゃなくて、紙縒。和紙で作った。

内田:そうです。紙縒の細い。

小勝:ご自分で作られて?

内田紙:紙縒はね、自分では作れないので、紙縒を作ってる和紙屋さんを見つけて。巻きで買って、岐阜の方なんですけど。それを墨染して。

小勝:ああ、なるほどね。

内田:墨染は自分でやってるんですけど。

小勝:なるほど。あの、いつも墨染ですか。

内田:最初の頃は、そのままの白い糸を使っていたんですけど。墨で染めた方が、紙縒がちょっと締まるというか強くなるので。

小勝:なるほど、わかりました。

川浪:紙縒っていうと、あまり長くないようなイメージですが、その専門の和紙屋さんには…。

内田:一巻きで、円錐状のコーン巻きという巻き方であります。

川浪:もう本当に紐というか、糸状のもの?

内田:あるんですよ。見つけたの。

小勝:すごいですね。

金:ああいう紙縒の和紙は、普段は何に使われているんですか。

内田:わからない。どうなんでしょう。

金:内田さんがそれを使うために、特注したのではないですよね。

内田:いえいえ、全然。

金:どういうふうに使うんですか、紙縒の和紙っていうのは?何か需要があるから…。

内田:紙縒は…昔からあるもので、和服を畳んで入れる、和紙のたとう紙についていますね。紙縒を結んでしまうという。他にはお祝いごとの水引や冊子のとじ紐、かつては仏像の胎内に自分の名前を書いて奉納するものを「こより」と言ったそうですね。紙縒にも太さがあって、私が今使っているものはとても細いもので、おそらくこのような伝統的紙縒を作る職人もいなくなるのではと思います。

川浪:確かに(とじ紐とか)。

金:それを使おうというふうに思いつかれたのは何かあるんですか。

内田:なんでだろう?

金:なんかこういうのも、ちょっとわかんないけど、この《母性》という絵(前掲図録cat.no.94_03)。縫いと違うんですかね、フォルム的にはちょっと。タイトルが《母性》なので、ちょっと興味があって。

内田:コラージュの前ですね。

金:はい。

内田:結構引っかいたりとか。

内田:コラージュは、縫い合わせてるのはこのあたりから。(《肉体ー外部 / 内部》1998年、前掲図録cat.no.98_03)

金:なるほどね。すいません。

小勝:これ、アップで撮った(写真がありましたね)(「ながれ 内田あぐり」展図録、pp.8-9 《深い河Ⅰ》作品部分)

金:佐喜眞美術館にもありましたね。

内田:記録集を差し上げてなかった?

金:いただいてます。いや、私写真アップして撮った時の、今思い出しました。

小勝:「ながれ」(展の図録)も送りましたよね。

金:もちろん。これ見てます。そのときは紙縒の和紙とか、そこまで意識がなかったので。今話を伺ってたら。

内田:普通の糸で縫うと、ちょっと細すぎて楮紙が切れてしまうのですね。

金:ああ、そうですね。

内田:それと、フォルムに対して、少し頼りない感じがして。それでいろいろ探して、和紙屋さんに行って、たまたまその紙縒りの巻を見つけて。これを使ってみようかなっていう感じだったんだと思う。

小勝:もうこれは本当に、内田さんの作品のトレードマーク的な、ひじょうに重要な部分を占めていると思います。

内田:自分じゃあまりよくわかってない(笑)

小勝:いえいえ。それで2000年代に入りますと、次々と大型作品が展開されてくると思うんですが。それと、テーマが非常に象徴的で、哲学的なテーマになっていくのかなと。例えばこの《喉から出た声》というのは、どういう意味なんでしょうか?それから《11秒間、喉から出た声》とか。この11秒間っていうのは、何なのでしょうか?

小勝:叫びなんでしょうか。

内田:叫びでもなくって…

金:日頃出すような?

小勝:苦しみですか?

内田:そういうんじゃなくて…。

内田:何か大事なことを言う一瞬の声のようなもの。

金:この喉から、自分が。

内田:自分の肉体を通して出る声みたいな、何か内側から出てくる一瞬の声みたいなのかな。11秒間は、自分で11秒間で測って、何が言えるかなってやってました。11秒間って短いようで、すごい長いんですよね。割と言いたいこと言えるんですよ、10秒でもないし9秒でもないし、11っていう何かその数字がすごい好きだったこともあって。11秒間って測ってみると本当に…「私はあなたのことが好きで、もうだからこうしてほしいんだ」みたいな11秒で言えたりするじゃないですか。(笑)

金:そうですか。

内田:うん。それが自分のこの中から、出てくる何かみたいな…でも、そんなに深い意味はきっとなかった。

小勝:でも続いてさらに《continue》とか、《この世で一番美しい場所》とか、《私の前にいる、目を閉じている》…こういった次々とたたみかけるように、深い内容を込めた大作が、次々と毎年、作られていく。すごいと思うんですけれども…。で、その前ですけれども、2003年に武蔵野美術大学在外研究員として…。

内田:サバティカルですね。

小勝:はい。これは何ヶ月間?

内田:1年です。9月から半年間、ロンドンに滞在していたんですね。

小勝:なるほど。

内田:イギリスは半年間ビザなしでいられるので。その後、ロンドンからニューヨークに渡ったんですよ。後の半年はニューヨークにいました。

金:2003年9月ですよね。

内田:2003年9月から2004年8月までですね。

金:わかりました。なるほど。

小勝:ここでメキシコやペルーまで行ってらっしゃるようですけれど。

内田:ニューヨークにいたときは結構自由にどこでも行けたので、メキシコシティとか。ペルーも行ったし、イタリアも行ったし、飛行機代が安かったんですよ、すごく。ニューヨークから行くと。あとはロンドンにいた時は列車でフランスのパリへ渡りましたね。

小勝:なるほどね。

内田:そうそう。海外にいると気軽にどこへも出掛けられますね。

小勝:それで帰られてから、先ほど言った大作が次々と。

(ここでお孫さんが帰宅する。)

川浪:ご近所なんですか?

内田:5分ぐらいのところに住んでるんですよ、娘夫婦が。娘が仕事のときはこっちに帰ってきて。

小勝:あぐりさん自身がなさったのと同じような感じですよね。(近くに住む両親が仕事の間、孫を預かったりしてサポートしてくれた。)

内田:そんな感じですね。

小勝:はい。それで、その1年間の海外研修の後、先ほど言ったような大型作品が次々と描かれていくわけですが、そういう海外体験が大型作品に飛躍していく際に、影響はありましたでしょうか。
《この世でいちばん美しい場所#06M》は3メートル60センチ。なんかすごく飛躍した感じがあったんですが。

内田:何だろう。やっぱりアメリカからロンドンで、本当にいろいろなギャラリーとか美術館や博物館をよく見てきて、刺激をたくさん受けましたね。それは文化庁の在外(研究員)で行ったときに、すごく感動したのと同じような感覚ですね。

小勝:このときはもう、亜里さんは大きくなられてたんですかね。

金:78年のお生まれですか。

内田:そうですね。

小勝:お1人でいかれた。

内田:はい。1人で行きました。

小勝:その続きなんですけれども、近作に至る過程の中で、緑色が現れたのが2012年の《消光#12h》ですね。この12h(エイチ)というのは、12時ですか。

内田:「h」はね…これ、葉山で書いた「h」だ。

小勝:葉山で描いた、なるほど。

内田:まだもう一つあるんですよね、作品が確か。

小勝:《消光》という作品ですか。

内田:大きな作品があって…。

小勝:《私の前にいる、目を閉じている―消光》(2011年)というものですか?

内田:そうですね、そこら辺ですね。それで、《消光》っていうタイトルで2枚描いてるんで、それで、Hと何か頭文字つけてるんだと思います。葉山で描いているので、たぶん。

小勝:この緑色が現れてきたっていうのは、何かきっかけはあるんでしょうか?

内田:緑色のきっかけは…うーん。

小勝:「消光」というのは光が消える、ですか?文字通り。

内田:うーんと…消光ってね…なんだっけな、意味があるんですよね。光が消えるんじゃなくって。

小勝:「消光」っていう言葉があるんですか。

内田:言葉があるのです。忘れちゃった(笑)ごめんなさい。あるんです。(*消光:月日を送ること。日を過ごすこと。消日。)

小勝:はい。それで、さらにその次の、2013年の…翌年ですか。《緑の思想》は、そもそも「緑」という言葉を使っていて。この間、画廊で(拝見しました)…。(*「風景の中の人間像」画廊楽Ⅰ、横浜、2023年5月16日~27日)

内田:ありがとうございました。

小勝:いえいえ、こちらこそ。あの展示されているのを拝見できてよかったですが、あれはまさに緑が中心になっているような作品ですけれども。この辺で緑が中心になってくる意味というか…。

内田:意味っていうか、3.11…これは直接のきっかけでもないし、何か「3.11をテーマにして描いている」ともあまり言いたくはないのですが。

小勝:ええ。

内田:3.11…の時、私、日本にいなくてメキシコにいて、経験してないんですよね。メキシコにいて、向こうのテレビの映像に出てくる津波のシーンがあっても、全然実感なくて。友達が「メルトダウンするから帰ってくるな」っていうメールが来たりとか。いやよくわからないけど、とりあえず帰ってみようっていうことで。でも、メキシコの人たちは、みんな労わってくれて。「大変ことになってるけど大丈夫?」って本当に優しくしてくれて。それでもよくわからなくて、日本にやっとたどり着いて。(震災)直後だったので。

小勝:ええ。

内田:よくわからなくって。とにかく、見に行ってみようと思ったんですよ。どこでもいいから、仙台とか…どこに行ったのかな…えっとあれは…仙台から上の方の…岩手とかあのあたりの、被害がひどかったところ。

小勝:三陸海岸…

内田:義援金を10万円だけだったけど持って、どこに届ければいいかわからなくて、行った先の、プレハブの簡易避難所のようなところにとりあえず預けて。そこで見た風景が、緑色だったんですよね。ちょうど5月頃に行ったせいか。

小勝:それが2012年ですか。

内田:2011年ですね。

内田:娘と一緒に現地へ行ったのですが。海岸線を車でずっと走ってて。川沿いとか…それから田んぼや、沼や。そこはまだ水がひかなくて溜まってるじゃないですか。その中に被災して壊れてしまった家とか、家具や、日用品が水につかった状態のままで。それが水の中から緑色の草が勢いよく生えている中にあって、その光景にとてもショックを受けたんですよね。忘れられないです。緑が、目の覚めるようなエメラルドグリーンみたいな、形容し難い緑で強烈だった。その後しばらく絵が描けなくなって…で、その後から緑が出てきたのかな。でも、被災してる光景を描こうとか、そういう意識は全くないですね、ただ色が出てきただけで。

小勝:なるほど。さっきの消光(の意味は)…なんでしたっけ。

金:全然知らない言葉でした。失われた月日。月日を送ること、つまりその日を過ごすこと。何か日を消していくみたい。「小生、無事消光いたしております」という例文がある(笑)

小勝:なるほど。そういう意味で、描かれたのが2012年の《消光》。

内田:そういう意味だったかどうか、なんですけど、なんか消光という言葉に惹かれて、タイトルはつけたんですけども。

小勝:それで翌年の《緑の思想》を見たりするんですけれども。この前の画廊で展示していらしたとき、画廊の方が、内田さんが学生さんたちと一緒に帰ってきて、学生たちがうなだれていた、と。これは南三陸から帰ってきたのとは、また別なんですか。

内田:そうではなくて、ちょうどドローイングの授業をやってて。2011年の5月の授業だったのかな。ドローイングの下方の中央にいるのは、男性の舞踏家が動いてるフォルムです。学生たちはみんな、床に直に紙を置いて、そこでドローイングをしている。でもみんなの表情が暗かったんですよね、その時。あの時は大変な辛い時期を学生たちも過ごしていたのですね。みんな蹲って、こうやって描いてる光景を私は反対側から見てて、学生たちをドローイングしてたんですけど。そのドローイングを基にして、作品が生まれたものです。

小勝:なるほどね。2011年のドローイングをもとに、2013年に作品かできたと。

内田:2011年と翌年の2012年のドローイングから生まれた作品ですね。

小勝:なるほどね。はい。わかりました。ここまで私がずっとお聞きしていたんですが、この後の近作については最後の方でちょっとまとめたいと思いますので、続いて…。

金:小勝さんが、まずは一通り質問を書いてくださって。その後、私達もですけど、小勝さんの質問の中で、私もドローイングについて聞きたかったと言いました。さっきの説明で、私はわかったような気がするんですけど。デッサンとかドローイングとか。だから、小勝さんはどのようなことをお聞きしたいと思われたんですかね。

小勝:ドローイングがいかに内田さんの作品にとって重要なものであるかっていうことを語っていらして。私もまさにそうだと思うんですけれども。

金:内田先生もそうですけど、普段は絵画作品ばっかり見ててもドローイングをまとめてみる機会があると、やはりドローイングが基本だなと思ったりしてたので。あと、佐喜真美術館の展示にもドローイングがいっぱいありましたね。

小勝:そうですよね。すばらしいですね。

金:ドローイングだけ展示した壁が、本当にすごかったんですね。常に毎日ドローイングをなさってるんですか。

内田:いや、毎日ドローイングはしていないんですけど。

小勝:ただ、やっぱりそのドローイングこそ、作家の生の手の動きというか、息遣いというか。もちろん完成作は素晴らしいんですが、それとは別に一番現象的なっていうかね。作家の…感動というか、そういったものに生に触れられるという意味で、ドローイングは見る者にとっても、すごくいいものだと思うんですけれども。それは内田さんの場合は非常に強く意識していらっしゃる?「タブローと等価なものであり、独立したものだ…」と。

内田:タブローと等価なものということは意識していますけど、やっぱり私の中では唯一素朴な表現と思ってます。紙の上に鉛筆だけとか、木炭だけのシンプルな表現なんですけど。自分の直感的なものを率直にストレートに表せるっていう。描くことの原初的な行為だと思ってますね。

小勝:筆で直接ドローイングをなさったりしていますね。

内田:筆でもドローイングしていますね。

小勝:それと、さっきの海外体験のところを伺いましたけれども、イギリスのポストパックを使われた。これもすごく面白いですよね。(*《ポストパック・ドローイング》シリーズ、2007年)

内田:嬉しい。(笑)イギリスでは日本画の紙を送ってもらって描いたんですけど、現地の素材で描いて見ようと思ったことですね。郵便局で売られているポストパックが安価ですごく面白くて、郵便局が大好きなので、切手やポストパックを物色しに行って、ドローイングをよくしていました。とてもたくさん作ったので、たたんで、自分で作った箱に入れて、それを引きずってニューヨークに渡って…。

小勝:なるほどね(笑)、これも海外体験から生まれたものって感じですかね。

内田:そうですね。やっぱりポストパックは向こうでしかない。

小勝:向こうのポストパック面白いですもんね。

川浪:既成のものをお使いですけど、組み合わされるとコラージュのように見えたり。この矩形じゃないところも含めて面白い。

内田:そうなんですよね。

川浪:すくい取ったみたいな感じのイメージがあります。

金:日本のゆうパック、ああいうの昔からありましたか?私は日本に来たときに、そのときはまだ、韓国の郵便局には、こういうものがまだなかったんですよ。すごくかっこいいなと思ったのを覚えてます。

内田:韓国のもかっこいいですよ。

金:その後にできてかっこいいんですけど(笑)。

内田:やはり異国から来ると、違う国のポストパックがすごく面白いんですよね。(笑)

金:そうなんです。それ覚えてます。

小勝:私は80年代にフランスに短い期間だけど行って、向こうから本買っては、いっぱい送っていて。それがやっぱり黄色いポストパックで。すごくおもしろい、いいものだなって思ってました。

金:私も同じ(笑)

川浪:素描についてお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?

小勝:どうぞ、どうぞ。

川浪:モデルを前にして制作する素描は、いわゆる作品を描くときには目の前にないから、ある種、構成するというか。過去に描いたもののいろんなイメージとかが、時間を置いて表れてきてくれる、みたいなことをおっしゃられていた気がするんですけど。制作順にドローイングがしまわれてるわけじゃないって。

内田:整理してしまって置けないんです。

川浪:無作為に取り出してみて、自分で再発見するみたいな、そういう感じで作品に結びつく…なんていうんでしょうかね。きっかけとか、ヒントになるような素描って、どんなふうに内田さんの中で浮かび上がってくるのか。

内田:全部というか適当に何枚もアトリエに出すんです。

川浪:ばーっと広げて?

内田:足の踏み場もないぐらい、ぜーんぶ出して。それで「あったな、あったな」みたいな。探していく感じでやってるので、ついこの前描いたのが、今の絵に活かされるっていう場合もあるし。何十年も前に描いたドローイングが、このフォルムもちょっと面白いな、という場合もあるし。年代がもう本当に、バラバラになっちゃうんですよ。

川浪:バラバラでしたら、広げるたびに違う。バラバラ加減というか組み合わせで、偶然目に飛び込んできたりっていうこともありますよね。

内田:そういうこともあります、偶然に見つけるみたいに。でも大きな作品、作品を描くときには、いたずら書きみたいな、エスキースみたいなのを必ずしているので。そのエスキースが頭の中にあって、そこにドローイングのフォルムが、何かつながらないかなっていう意識でドローイングを探してるので。あらかじめちょっと頭の中でエスキースというかおおよその構成がある。。

金:ああ、そうなんですね。

内田:漠然としてるんですけどね。

川浪:なるほど。全部を広げてっていうのが、偶然性だけじゃなく。

内田:偶然性もある。

川浪:偶然でしょうけど、ある種の探していくっていう必然的な道筋みたいなものも、おありなんですね。

内田:そうですね。

金:ふつうにあったものと、偶然が。

内田:偶然に、「あー、こんなのあった」みたいな。

金:両方が一緒に。何かが起こるんですよね。

内田:何かが起こるのか…(笑)

小勝:それがね、(ドローイングの展示は)ちゃんと展示室で空間として見せていただけるんで、あれはすごくいいなと思います。

金:佐喜眞美術館の、あの壁は本当にすごく良かったです。

小勝:ええ。

川浪:作品の配置とかも全部、内田さんが?

内田:うん、適当に…(笑)

小勝:(笑)

金:佐喜眞美術館の上間さんは、内田先生がこれを、ここにしましょうとおっしゃったとか、あの、ロビーの椅子とかも…

内田:あ、そうそう。

金:若干、模様替えされたとか言ってました。

内田:した、した。もう模様替え、すごい勝手にしちゃった(笑)

小勝:(笑)

金:「私もちょっと困った、でも内田先生が…」って(笑)

内田:いやだー、上間さん(笑)

金:それで、素敵な空間になったと。いつもと違うような。

内田:椅子を少し動かしただけで、絵が全く違って見えることがありますね。

金:内田先生がなさったんですよ、と言ってました。

内田:作品が置かれる空間はすごく大事ですし。作品を展示する際にはいつも全体の空間性を意識しています。

小勝:ええ。

内田:特に佐喜眞(美術館)の場合は、《沖縄戦の図》もあるし、独特でとても強い空間なので、空間性の中でどのように作品を構成して展示するのかは大切にしましたね。

川浪:私も図録の写真でしか見てないですけど、すごく魅力的な配置。

金:このあたりに、《沖縄戦の図》の部屋が見える。これがすごかったと思います。

内田:あ、そうそう、それを意識してて、《人びと》という男性と女性の作品をドローイングの傍に展示したのですが、あれは1984年に描いたもので、《沖縄戦の図》が描かれた年と同じ年に描いたものなのです。《沖縄戦の図》が描かれた年に私は何を描いていたのか、それをあの空間に展示してみたかったのですね。

金:もうすごかったんです、この眺めが。

川浪:遠くにね。ドローイングと沖縄戦の図が一緒にみえる…。

金:この空間は本当に…。

小勝:すごいですよね。

金:佐喜眞館長が「すごいでしょ、これはもう二度とない(笑)うちだからできる!」っておっしゃって。

小勝:本当ですよ。これを見に行けなかったのは本当に痛恨でしたね。

小勝:これは武蔵美の退任記念展。(「内田あぐり―化身、あるいは残丘」展、武蔵野美術大学 美術館・図書館、2019年5月20日~6月16日)
そのときもドローイングの部屋がありましたよね。

内田:そうです。

内田:あ、そう、壁の色をね、ちょっと深いグリーンにしてもらったんですよ。(「内田あぐり―化身、あるいは残丘」展、展示室3(ドローイング・クロノロジー)、『内田あぐり―化身、あるいは残丘 記録集』に掲載(頁番号なし))

金:この壁いいですね。

内田:ポーランド映画の、アンジェイ・ワイダ監督の遺作となった映画『残像』が好きで、そこに出てくる画家の部屋の壁からイメージしました。

川浪:ストーリーはちょっと思い出しました。本当に暗い、底から浮かび上がってきたみたいな、すごいですよね。

小勝:すばらしいですよね。本当にこれ贅沢な展示でしたよね。美術館の空間を全部、使って。

内田:ほんとうにね、贅沢、今から思うと震え上がるほど。あの壁を作ってくれた設営スタッフには頭が下がりますね、大変だったみたいで。小勝さんとあの壁の前で一緒に撮りましたよね、写真。

小勝:はい、覚えています。この作品(《残丘-あくがれ》)のために、作られた壁なんですよね。

内田:これだけの高さの壁があるところ、美術館とか、空間もないので。あの時と同じにはもう二度と展示もできないって思ってます。(笑)(cat.no.19_01《残丘-あくがれ》、2019年、720×220㎝)

小勝:本当ですよ。この作品は結局、神奈川(県立近代美術館)に入ったんですか?

内田:ええ、そこに。

小勝:葉山に。だけどあそこで展示できないのがね。

内田:特集展示をしていただいた時は、壁の高さが足りなかったので、美術館と相談をして円山応挙の《大瀑布図》のように下の部分を床に垂らしたらいいんじゃないかということで、展示することにしました。(「生命のリアリズム 珠玉の日本画」展 「特集 内田あぐり」の展示、神奈川県立近代美術館葉山、2020年)

金:なるほど。

内田:またどこか、天井高いところがあったら、よろしくお願いします。

小勝:本当ですよね。まあ、美術館のエントランスとかならね。きっとあるところは、あると思うんですけど。

内田:そうそう。

小勝:それじゃそろそろ、締めくくりの方に行きたいと…それから膠の研究を、2017年に武蔵美の共同研究として、日本画の伝統素材、膠に関する調査研究というのを始められて。これを21年に展覧会という形でまとめられた。(*武蔵野美術大学共同研究「日本画の伝統素材〈膠〉に関する共同研究」2017~2021年。「膠を旅する―表現をつなぐ文化の源流」展、2021年、武蔵野美術大学美術館・図書館。)

内田:そうですね。

小勝:ただ、ここに至るまでのフィールドワーク、日本各地、様々なところに出かけられて。そのご体験っていうのがひじょうに大きなものであったんじゃないかなって思うんですけれども。

内田:はい、とても勉強になりました。

小勝:川浪さんの方から、なにか聞きたいことがありますか?

川浪:はい。本当にあの展覧会は拝見できてなくて申し訳ないですけど。この本(『膠を旅する』)を見て、なんでしょう、何を描くとか、なぜ描くとか、そういうことだけじゃなくて、何で描くか、そういう意味で、単に画材・素材っていう言葉だけで終わらない、深みというか、本当に初めて知る密なところに、ちょっと圧倒されました。

内田:ありがとうございます

川浪:制作の立場にない人間で、あまりにも細かい、深い、いろんなメディウムの話とか理解できないところもあるんですけど。これだけの展覧会と記録集を企画されて、やはりその出発点みたいなところ、膠を巡る旅ってどうして始まったのかとか、そしてそれから得られたこととか、展覧会とこの本を出された後の部分もお聞きしたいです。そう思ったのは、本のあと書きのところに、「絵画の可能性」という言葉を何度か出されていたので…。

内田:はい。

川浪:ご自身の願望と、あとなにか、いろんな意味での希望とか、いろんなものを込めていらっしゃる気がしたので。日本画のみならず絵画の可能性とおっしゃった、ぜひそのあたりの話を。
そこから得たものが、大きなエネルギーになって繋がっているというイメージを受けたので。お聞きしたいなと思って。

内田:ずっと使っている膠は三千本という膠ですが、美大の授業ではじめに日本画の先生方は膠と絵具の溶き方は教えてくださったんですけども、聞いても、三千本については、どういう場所で、どのように作られてるのかっていうのはなかなか教えていただけなかった。日本画の絵具や紙は、大体わかったんですけども。膠が不思議だったんですよね。なぜ棒状で、このトゲトゲがあって、こういうフォルムしてるのか、どのような場所で何から作られているのかなっていうのもずーっと不思議でした。

川浪:とげとげありますよね。

内田:そうですね、それは金網の上でゼリー状の膠を乾燥させる時にできる金網の跡なのですね。10年以上前に、三千本を作る職人の方が廃業されてしまって。三千本が作れなくなってしまったんですね。もう美大の日本画のなかで知れ渡って、じゃあどうするのみたいな、どこか買占めているんではないかと、みたいになったんですけども。そういうこともきっかけで、膠がどういうところで作られてるのかっていう、その文化圏っていうんでしょうかね、民俗学的な視点から少し取材して歩いてみようかというのがきっかけでした。スタートはそういう素朴なところからで。たまたま武蔵野美術大学の共同研究として採択していただいたので「それじゃあやろうかな」みたいなことで。いろいろなところに調査に行きました。そうした記録をその都度ムサビへ報告してたのですが、それを国書刊行会の方がご覧になって面白がってくださり、膠の本は他に類書がないこともあり、出そうと言うことになりました。こんな地味なの絶対に売れないよねーって言ってたのですが、重版出来で四刷りまでなって、びっくりでしたね。それと同時に、ムサビの美術館が展覧会を開催してくださって、コロナの時期で大変だったのですが、多くの方々に見にいらしていただいて、よかったなーと思ってます。

小勝:あの、青木茂さんとか。

内田:残念なことに亡くなられてしまいましたが…。

小勝:ああいう方々も興味があった。

内田:青木先生にもお願いして、一緒に北海道に行ったりとかして。アイヌや北方民族もやはり、こういう動物資源をもとにして、膠を使っていたりとかしたので。それ以来、青木先生は、アイヌの虜になって、アイヌの研究をなさってましたね(笑)

金:そうだったんですね。

内田:アイヌについての文章も書かれていると思いますよ。膠の旅をきっかけとしてみんなそれぞれ何かを発見する旅でもあったんですけども。

小勝:あの膠の周縁部にある文化や歴史や社会。これを学ばれたっていうのを書いていらっしゃる。そういうところがね、一番すごい…。

内田:膠の旅をして、その源流を辿っていくと、周辺で生きている人々の営みを垣間見ると同時に、いろいろな方のお話を伺うことができて、それは日本の社会や文化を支える人々を見つめ直す機会につながっていく貴重な体験でした。膠の旅をしなかったら、私は日本のことを知らないままでいたかもしれないです。今、見ておかないと近いうちに消えてしまうのではないか、そんな原風景を見ることができて本当によかったと思ってますね。自分の制作にとっては、やっぱり動物の体液で描かされてるんだなっていうことを、今まで以上に、自分が感じていますね。

小勝:こちらの「ながれ」という、これは天心賞を受賞された、その記念展のカタログに書いてらっしゃる文章「深い河」が、まさにその膠の歴史を学ばれたことによって、ご自分の制作の中にそれが生きているといいますかね。この部分について、すごくよく書いてらっしゃる文章で。

内田:そうでしょうか、ありがとうございます。

小勝:ええ、書いていらっしゃいました。「川のながれの中に命の循環をイメージするように、自然物の皮のある風景からインスピレーションを受けることで、作品化に繋がっていった。奥深くながれている生命のエキスを、人体表現とともに描かずにはいられないのである。」(「ながれ 内田あぐり」展図録、公益財団法人美術文化振興会、2022年、pp.6-7)。これを読んで、すごく納得できました。それで最近描かれていらっしゃる、その緑のシリーズといいますか、川とか、そういう水の流れ。それにつながっていくところがあるんじゃないかなと思ったんですけど。

内田:そうですね。緑は、家の傍らを流れている、どうってことない二級河川の小さな河なんですけど。6月ぐらいになると、川面が緑色になるんですよね。なんでしょうね、藻のフォルムがいっせいに現れるんです。1週間くらいであっという間に消えてしまうのですが。

金:えー。

小勝:藻は消えちゃうんですか。

内田:流れて行っちゃうんでしょうか。すごく不思議なフォルムをしていて、女性の長い髪の毛のようなフォルムであったりとか。そこに生き物が生息していたりとか、ときどき河の主の蛇がいますから。藻の上を縫うように這っていたりとか、しょっちゅう見ていて。その川に現れる緑のフォルムを描いて、流れの中で何か人体も一緒に生きていくんじゃないかという、そういうイメージで描けたらいいかなっていうことで。最近ずっと河をテーマに描いているんですけれども。

小勝:これもね、本当に毎年のように大作を発表されてらっしゃるなって。ここ(2019年以降の作品)を昨日まとめてみたんですけれども。

内田:大作ですね、本当に(笑)

小勝:毎年これが続くっていうのが、すごいなあと思いまして。

内田:もう終わりにしようかなと思って(笑)、体力的に結構…。話し忘れたけど、糸で縫うことも、すごい体力がきつくて。

小勝:それはそうですよね。

内田:日本画は床面に置いて描くのですが、切った楮紙を画面に画鋲で留めて、縫い合わせていくんですけども、絵の上に乗って畳職人みたいに太い針でこうやって、屈んで立て膝をしてやってくんですよね。しばらく続けていくと、体が起き上がれなくなって。指も痛くて腫れてくるし。あれが体力的にすごいきつくて。何とかなんないかなと思ってますけれど。

内田:肉体第一ですよね。本当、なんだか、日本画を描くっていうことは、肉体なんだなと思って(笑)

小勝:大きな画面ですと、日本画家の方、乗り板をさしわたして。あのソン・ヒョンスク*さんもおっしゃってましたね。足を踏ん張ってそこに乗って、大きな刷毛で、ガーって描くあの、ドイツ在住の韓国の作家の方がいらっしゃるんですけど。股関節をすごく痛めて…。(*ソン・ヒョンスク Song Hyun-Sook 1952年韓国生まれ、ハンブルクに在住、活動。画家)

内田:私も痛めました。治療をしたので今は良くなりましたが。

金:だから、(ソンさんは)股関節のためにベリーダンスを習ってるとおっしゃって。大変良くなったそうです。もともとダンスが好きで。今でも、やりとりしていて。もちろん。素敵な方で。

内田:すごいですね。

金:やっぱりそうしないと。

内田:使いますからね。

川浪:それだけこう、下にうつむいて描くのも大変なのに、大作にチャレンジされていると…。

小勝:縫うというのもね、ほんとうにね。

内田:もうだから、パネルを頼んでる後輩がいるんですけど、「今回は大作はこれで終わりにするからね」って言うと「本当に終わりなんですか、これで?」って。「信用できないからなー(笑)」といつも言われてる。

小勝:もうそんな、おっしゃらないで。ほんとうに、ゆっくりで結構ですから、ぜひ続けていただきたいと思います。

川浪:そうやって限界を超えてらっしゃるんですね(笑)

小勝:ふふふ。本当ですよね。

内田:ギリギリかもしれないですね。

小勝:そろそろ、最後の前の質問として、さっき佐喜眞美術館の展示の話が出ましたけれども、沖縄で展示をされたことに関して。それから、丸木位里さん、俊さんのお2人を、ついこの間も内田さんが作品を選んで、「風景の中の人間像」という展覧会を企画されましたけれども。そのお二人に対する、いつから気にかけてらっしゃるのかとか、想いとか。(*「風景の中の人間像」画廊楽Ⅰ、横浜、2023年5月16日~27日)

内田:気にかけているのは、私の26歳のときの、みゆき画廊の個展のときにヨシダ・ヨシエさんがいらして、君の作品は何か原爆の図、丸木位里さん、俊さんの作品にすごく近いものがあるから、見た方がいいって言われたんですよ。何となく私、写真で知ってはいたんですけども。なんかあんまり近づかなかったんですよね。
それでずいぶん時間が経って、丸木美術館の《原爆の図》も見に行ったりとかしたんですけども、最初に見た佐喜眞美術館の《沖縄戦の図》が私は一番衝撃的だったのですね。

小勝:ええ。

内田:なんで沖縄戦の図に惹かれるのかなと。《沖縄戦の図》は人体がデフォルメされて、もっと表現が自由になってると思う。

金:なるほど。

内田:構成なんかも、真ん中にすごい亀裂が入っている白い空間があって、そこに人体が真っ逆さまに落ちていっている、他には見られないじゃないですか、彼らが描いてきた作品のなかで。だから、絵画的に私はすごい作品だなと思っていて。もちろん、沖縄戦の惨状とか、そういうことをテーマにして、それはすごく大事なのかもしれないけども、それ以前の、もっと何でしょうね、絵を描く彼らの根源的な表現だったりとか、そうしたことに感動しますね、私。

金:はい、はい。

内田:で、何回も見に行ってる。だから展覧会のことも佐喜眞美術館で展覧会させていただこうとは全然思っていなくて。でも佐喜真さんが私の個展を何回か見に来てくださってたんですね。でも全然私知らなくて。そんなこと佐喜眞さん一言も私におっしゃらなかったから。(「内田あぐり 在 existence」展 佐喜眞美術館、2022年9月16日-11月13日)

内田:ある時電話かかってきて。「佐喜眞だけど」みたいな(笑)。内田さんの(展覧会)、佐喜眞美術館でやりたいんだよねって。僕、見てるんだって。そのとき初めて見てくださってるのがわかってびっくりしちゃって。確か武蔵美の美術館の展覧会や原爆の図丸木美術館の個展もご覧になってらした。

金:それはいつですか?

内田:電話かかってきたのは、数年前の、展覧会の前の年ではない、間に合わなかった。2年ぐらい前。そのぐらいだった。それでもう、ぜひやらせてください、って(笑)

小勝:はい、はい。

内田:その佐喜眞美術館に展示した新作は沖縄に置いておきたかった。見るんだったら沖縄へ行って見ようとか(笑)

川浪:なるほど、なるほど。

金:そうだったんですね。

内田:《沖縄戦の図》のある空間で、佐喜眞の個展は私にとっては勉強になったし、沖縄のアーティストたち(クロージング・トークをした坂田さん、喜屋武さん)と知り合える良いきっかけになって。またそこから何かがきっと生まれていくだろうし。
沖縄の作家たちは沖縄の伝統や歴史をリスペクトしているのがいいですよね。琉球絵画を研究したり、本土を飛び越えて沖縄の美術が海外へ出ていったりと、素晴らしいと思いますね。(*阪田清子(1972年生まれ)現代美術家、沖縄県立芸術大学准教授;喜屋武千恵(1969年生まれ)、画家)

金:平良優季さんも。(平良優季(1989年生まれ)、日本画家)

内田:平良さん。

小勝:ああ、平良さんともお会いになって。

内田:はい、よく知ってます。すごい仲良くなって。

金:皆さん、仲良くなったんですね。

内田:すごくそれが、やっぱり私、嬉しくて。またそこからいろんなものを教えてもらえるし。

金:みんな、飲む方たちで(笑)

内田:みんなで飲むんですよ。

金:そうなんですよ。それぞれ個性もたっぷり。

内田:面白いですよね。

小勝:まあそういった沖縄の次世代の作家との出会い、それで最後に…

金:最後に今回、小勝さんの企画の趣旨もありますし、美術を学んだり、制作を続けている次の世代の女性アーティストたちに向けて何かメッセージとか、あとご自分の今までの、これからの活動も含めて、こういうことを言ってあげたい、ということがあればお聞かせください。

内田:これね、いろいろずっと考えてたんですけどね。

金:後輩たちにひとこと、メッセージとか、気軽に(笑)

小勝:まあ、作品を見ればね、伝わるものは多いと思いますけれど。

金:あんまりにも先生みたいな話だけど、作品を見ながら歴史も時には勉強しながら(制作し)なさいとか…。

内田:なんでしょうね…作家の生き方、人生は本当に長いですし、生きていく中でいろいろあると思うんですけども。今は生きづらい世の中じゃないですか、戦争とかいろんな問題があって。だけど…なんだろうな、絵を描いていても描いていなくても、とにかく生きていることが肝心かな。

金:大事だと思います。

川浪:それが難しいんですよ、それが。

内田:でも、ただ生きてればいいんですよ。

川浪:今の世の中、生きづらいというのが当たり前になっていて。みんな生きづらいよねとは言ってあげられるけど、やっぱりそれだけじゃなくて…。

内田:そうじゃなくて、やっぱり命を絶っちゃったりとかする若い人っているじゃないですか。そんなにつらいものはないし、とにかく生きててほしい、みたいな感じかな、若い人には。それしかない。

小勝:本当ですね。やっぱり生きている、いないと何もできないですからね。でも、武蔵美出身の女性の、いい作家さんがたくさん出てきてますよね。

内田:みんな生き方が下手くそなんですけどね、だけど、いい仕事はしますね。画家は繊細だから下手くそな生き方しかできない、だからいい仕事ができるんじゃないかなと。

小勝:何人かご紹介いただいて、作品を見て。本当に武蔵美出身の方、いい方がたくさん出て来ているなと思いました。

金:下手くそというのは、例えば世渡りが上手じゃないとか、そういうこともあるんですか。

内田:世渡り下手なんですよ、純粋だし…。自分のことをうまくアピールしない、黙っちゃう。

川浪:それは大事です。みんなですか。

内田:結構多いですね。

川浪:武蔵美の特徴?

内田:そうかもしれないですね。

金:沖芸の特徴でもあるかもしれません。

内田:先生たちがみんな硬派というか、精神性が深いというか、世の中に迎合なんかするな! そういうタイプの先生たちに育てられて、それが続いてるから。

金:だからみんな、見て育っているから。

内田:みんな下手くそなんですよね。

小勝:いや、本当にまだまだお聞きしたいと思うんですけども。

川浪:長時間になりまして。

小勝:最後の方でもすごくいいお話をいただきました。とくに佐喜眞美術館と沖縄についてのくだり、感銘を受けました。

内田:これからは町にある、誰でも美術を学べることができる小さな研究所、寺子屋みたいなところが今必要とされているのかなって。これからそんな研究所を横浜に作りたいなと考えているところです。

小勝:それはいいですね。
今日はどうもありがとうございました。

金、川浪:ありがとうございました。

 

インタビュー終了後、2階のアトリエに移動し、珍しい画材、旅のお土産などであふれた空間を見せていただきました。

アトリエにて 久留米絣のモンペを仕事着に愛用

韓国で採取した土からの絵具(ファント)

100年前のイタボ牡蠣(胡粉の原料となる)

絵皿と筆 緑の顔料が多い

 

画室は天井が高い。上段になぜか虫籠が並ぶ。

 

 

窓辺に海外の旅のお土産や海辺で拾ってきたものが並ぶ。