上原美智子 インタビュー  Interview with UEHARA Michiko

上原美智子 インタビュー
2023年2月14日
沖縄県南風原町 まゆ織工房、上原氏自宅にて
インタビュアー:小勝禮子、川浪千鶴
紹介文・質問事項作成:金惠信
写真撮影:川浪千鶴(上原美智子氏ポートレイト、他1枚)、小勝禮子
書き起こし:平良優季
公開日:2023年4月24日

上原美智子 UEHARA Michiko 染織家

1949年、沖縄県那覇市に生まれ育つ。東京の玉川学園女子短期大学に学ぶが、駒場の日本民藝館に通い、沖縄の織物と陶器をみて、沖縄にかかわるものづくりの道を歩むことを心に決める。卒業後の71年、染織家の柳悦博の工房で織物を始める。74年沖縄に戻り、県指定無形文化財保持者の大城志津子に沖縄の伝統的織物の技法を学ぶ。79年、周辺が沖縄戦の激戦地だった南風原の自宅裏手に「まゆ織工房」を設立。89年那覇で初個展「蝉衣展」開催。86年頃から極細の絹糸から究極の薄さの布を織り、沖縄の古語の蜻蛉(あけず)の羽という意味で「あけずば織」と名付ける。98年参加のニューヨーク近代美術館MoMAの「現代日本染織展」がアメリカ各地とドイツを巡回。2000年あけずば織作品が東京国立近代美術館工芸館(現・国立工芸館)に収蔵された。01年イギリスのライムリージスTown mille galleryにて海外初個展。18年フランスのパリ装飾美術館「ジャポニスムの150年展」など、国内外で多数の個展やグループ展に出品。「植物の糸の力」(2022年ギャラリーcomo個展「糸との旅」図録の作家のことば)を持つ、透明で軽やかな布を織り続けている。


 

(インタビューを始める前からの話)
上原:質問の前に勝手に喋ってごめんなさい。

小勝:いえいえ、とんでもないです。

上原:あまりなんかこう美術の中のヒエラルキーっていうのは、そこまで、自分の中にない。自分のまあ、冨田さん(冨田康子氏:横須賀美術館学芸員)*との対談とか、そういうのにも書いているんですけど。「触覚」というものをキーワードにしています。、布が「手触り」だったら、例えば竹製品でも焼き物でも手触り品ですよね。ただ、絵画とか彫刻もってあれかもしれませんけど、絵画はこう手でいじくり回すとか、撫でるとかっていうのとは、すごくかけ離れた世界。でも、私は絵も大好きですし、それはいいんですけど。
 そういう、あの彫刻や絵画にできない、本当にそういう造形表現とか、例えば、デッサンを勉強して絵を表現したいんだったら、最初からそれをやればいいと思うんですけど。何か人が手で作り出すことの、根源的なところから発生していく仕事の展開っていうのかな。多分、そこに興味があって、「織る」ということを選んだんですね。焼き物でもよかったかもしれないし、 違うことでもよかったかもしれないけど、ま、色々考えて織の方がしっくり来たというか。
 だから、あんまりヒエラルキーとか、そういうのがこう染み込んでない、もちろん、知識としてはありますよ。美術の流れとか。西洋美術を読んだりすると。当然、ヒエラルキーがあるのはわかっているつもりなんですけど、自分の中に、じゃあ、それが、そういうことをしたいのかっていうと、そういうことではなくて…。なんかもっと人間のこう根源的な欲求っていうか、衝動というか、それもだから自己表現っていうのもどうかなって。70年代のああいうことを通過してきていますのでね。「自己表現って何」っていう懐疑もあるわけですよ。何かそういうもっとこう身体によって切り開かれていく何か。もっとリアリティのあるものっていうのを、多分自分は求めていたのかな。
*『かたちとまなざしのゆくえ―美術と工芸をめぐって-報告集』かわさきIBM市民ギャラリー、1994年、主催:財団法人川崎市文化財団、川崎市、企画:山本秀夫、冨田康子、藤島俊会

小勝:はい。ありがとうございます。いきなり(創作の)核心に触れるお話をいただいてしまったんですが、あの、申し訳ないんですけれども、今回のインタビューの目的を初めにお話ししなければいけないんです。でも今すごくいいお話を頂戴したので、ぜひ今の部分も活かして構成させていただければいいかなと思います。で、そもそもあの今回インタビューさせていただく内容なんですけれども。

上原:ちょっとこれ(金惠信が作成した質問リスト)、朝読みましたので、これに沿って、ですね。

小勝:はい。(インタビューする相手を)女性の方に限らせていただいてまして、私のウェブサイト自体が、アジア圏の女性のアーティストをできるだけデータベース化して、どういう方がいるのかっていうことを、ネット上で検索をする入口になればいいなという風に思って、今作っているんです。それで、インタビューは、実は上原美智子さんが第1号、最初のインタビューなんで、私たちもちょっと緊張して、なかなかまだ(慣れていないんですが)…

上原:そうなんですか。でも、100名近い人たちの名前が…(4/10現在、90名(グループも含む)の登録)

小勝:あれ(データベース)は作品のご紹介です。写真とそれも今後、屋宜奈緒さん(まゆ織工房、次女)にお願いして、(上原さんの)データを頂戴して作らせていただこうと思うんですが。あれは作品紹介のページで、あれとは別に… 
(その後、上原美智子氏の作品紹介を2023年4月10日に登録、公開した。https://asianw-art.com/uehara-michiko/

上原:もうインタビュー、すでに終わったと思いました。

小勝:いやいや、全部インタビューしてるわけではないです。逆にこれから始めるんです。

上原:皆さん、アート関係で、工芸は後のちょっとなんかあれだから。ま、私、最後にインタビューにみえたのかなと思ってました。

小勝:いえいえ、とんでもない、第1号です(笑)

上原:緊張しますね(笑)

小勝:はい。でも大丈夫です。それでどういうことかって言いますと、やっぱり女性のアーティストに限っているのは、先ほど、(上原)誠勇さん(美智子氏の夫、画廊沖縄を創立、主宰)がお話されていたように、女性がやっぱり後回しにされている現状がありますし、アートで言えば、おっしゃったように、あの絵画・彫刻がまず最初に来て、工芸が後に来るみたいな、そういうヒエラルキーの世界だと思うんですね、まだまだ。で、その中で女性のアーティストの方で、できるだけ長く活動してらっしゃる方にお願いしたいと思いまして。
女性として、やっぱり家庭生活を当然大切にする方も多いと思いますが、そういう女性の人生の様々な節目を越えて、今まで続けて来られたその個人史的なことをちょっとお伺いしたいなというのが、今回の趣旨なんです。

上原:個人史を語っていいのかなって思っちゃうんですけど。

小勝:差し支えない範囲で。つまり後に続く世代の、今の若手の方、中堅の方が、これからずっと年齢を重ねていく中で、あと、止める・止めないは本人の選択ですし、止めたから悪いってわけではないんですけれども、できれば(アートを)続けていきたいと思う方に、どのように先人はそれをやってらしたかと。

上原:大きな趣旨が、目的があるんですね。

小勝:そうなんです。先輩として語っていただきたいなという。

上原:先輩!先輩という歳になりましたね〜。

小勝:それでちょっと個人的なこと、プライベートなことも含めて、差し支えない範囲で教えていただければと思います。

上原:はい。

小勝:それでは、早速ですけど、ちょっと細かいところからお伺いさせていただきます。まず、お生まれが那覇市ということですが、ご両親は、この南風原の方なのでしょうか。お生まれになったのは。

上原:両親ですか。

小勝:はい。ご両親は…。

上原:えっと、父は南風原の津嘉山ってここから10分ぐらいのところで、そこの出身です。母はあの那覇のど真ん中の泊(とまり)という(ところの出身)。

小勝:あ、お母様は那覇で。それで、ご結婚されて。美智子さん(が1949年に生まれる)、その前にあの沖縄戦という大変なことが…

上原:そうですね。母は元々、泊の士族の家系なんですね。それで、沖縄の移民っていうのは、農業もそうですけど、都市地区からも移民で行っているんですよ。ペルーに行った最初の移民が、私の曾祖父さんなんです。
えっと、1906年のカサド丸か何丸かわかんないですけど、ペルーに最初に行ったうちの一人で、一緒に行った6人のうちの1人なのかな*。で、その時にこの自分の一族の何人かと一緒に行っているんですね。そこで商売をして、ちゃんと稼ぐことができて、ちょっとビルも買ったとか。色々で成功したわけですよね。成功して、子供たちみんな呼び寄せたのかな。母はペルーで生まれて、 4歳の時にそのおじいちゃんと一緒に沖縄に帰って来たんです。戦前ですね。戦争の前に。親と離れて、兄弟、姉妹とも。弟2人は戦前、沖縄の中学に入学しました。
* 沖縄からの最初の移民は厳島丸で、36人がペルーに到着した。
https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=609e82743d59ae2434bff6fc

小勝:そうですか…。

上原:順次、妹たちも、沖縄戦がなかったら教育を受けるために、一族の子供たちは戻ってくるわけです。でも、そこに沖縄戦っていうのがあって…。その前に父と母は、お見合いで結婚して。当時は、南風原って、まあ地方、田舎ですよね。それで那覇のとりあえず、一族の周りの人たちはものすごく反対だったらしいんですけど。おじいさん同士、父の父親とうちの母を育てたお祖父さんがとても仲良しになって、そういう個人的な繋がりがあって、自分の息子と、じゃあ、自分の孫娘を結婚させようということで 一緒になったんです。ただ、時代背景としては、すごく親族からは猛反対されたそうです。

小勝:えーー。

上原:でも、母は一生懸命、そこに馴染んで。父は戦前の麻布獣医大学に行って、獣医になったんですね。今の時代の獣医さんと違って、小動物じゃなくて、昔の農村は馬とか、牛とか大事な財産ですから、必要な職業で。で、獣医になって、馬に乗って、南部一帯を往診していたっていう写真も見せられました。私が成人してからも。実家には馬の鞍がありました。というような、なんかそういう家庭の雰囲気でしたね。だから、母と父のそういう出会い、それからその背後にある家庭環境とか、そういうのも子供の頃から聞かされたりして、それと父は元々すごく芸能好きで、美術工芸が好きでしたね。

小勝:ああ、そうですか。

上原:沖縄芝居とか踊りとか。若い時、踊りも習ったそうです。三味線も自分で弾いて、組踊の独特の節回しもですね、テープレコーダーが出始めた頃、直ぐにそれを買って、自分でこの節回しを録音するぐらい、すごく芸能好きな父親でした。

小勝:ああ、そうですか。

上原:で、絵も描いたり、書も書いていたり…。要するに、一種の風流人っていうか。尺八も習ったりして。

小勝:やっぱりそういうところから…

上原:そうですね。影響は大きいですね。何もない1000坪のサトウキビ畑に、すごい大きな庭を自分でコツコツと作り始めたんですよね。那覇でレストランをしていたんですけど。私が20歳ぐらいの時に父は南風原に戻って、庭作りをしながら、そこで料亭のようなものを始めたんですよ。もうだから、父の自由な、と言えば聞こえはいいけれど、ある意味やりたい放題…兄の話になっちゃいますけども、兄は24歳の時、映画を作っているんですね。「吉屋チルー物語」という。作ってしまったんですけど。

小勝:金城哲夫さん(1938-1976、脚本家。ウルトラマン・シリーズを手掛ける)。

川浪:NHKのドラマにもなりましたよね。

上原:映画も作ったはいいんですけど。うまく撮れたんですけど。公開…、要するに収益が、発表するところがなくて、もう借金だけが残って、フィルムが今、県美(沖縄県立博物館・美術館)にありますけどね。時々上映されますけど。(「吉屋チルー物語」1962年、98分、16mmフィルム)

小勝:あー、そうですか、

上原:スケール感っていうんですかね。それは父親の影響は子どもたちにも、父親の何かそういうのあるのかなと思って。で、男の子だから女の子だからというよりも、私は、ずっと可愛がられて、よく父の手伝いもしていたもんですから、庭作り。「美智子ね、人生は一度きりだよ」って「好きなことして生きるんだよ」って。父は好きなことして生きて、母にすごい迷惑かけたんですけど。

小勝:そうですか(笑)。

川浪:戦後、その獣医の仕事を続けるのではなく…。

上原:そう、会社を起こしたりして。この会社潰れたりして、現実的に支えたのは母ですね。

小勝:料亭をされて。

上原:今日から沖縄戦っていう時に、空襲で片足やられたんですよ。 片足やられて、逃げまどった時の様子を私、子供の頃よく聞かされて。戦争が、どんなに具体的に悲惨だったかっていうことを映像のように刷り込まれているんですけどね。

小勝:その沖縄戦について、ごく身近にお感じになりながら…。

上原:そうそう。沖縄戦は人ごとじゃないんですよね。南部は4人に1人死んじゃってますから。特に南風原とか南部一帯にね。糸満とか。

小勝:ご兄弟は4人兄姉いらしたのに、長女の方は、終戦後亡くなられたと。

上原:よくご存知で…

小勝:あの、(前のインタビューを)*読ませていただいて。
*OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECTS,上原美智子 2012年3月9日
http://www.oaip.net/archives/michiko_uehara.html

上原:はい、そうなんですよ。だから、そういう沖縄の…もう本当に、沖縄の歴史っていうのかな。それがもちろん私だけじゃなくて、沖縄の多くの人たちが密着しているんですよ。戦争とか、戦後とか、ドルの頃とか、パスポート持ったとか、アメリカの27年間の統治時代とか、復帰したとか。ものすごくこう、密接…小さな島ですからね。密接な空間の中で経験しているんですね。私だけじゃないですよ。

小勝:そうですよね。

上原:はい。ほとんどの人。

小勝:はい。おそらく後の世代の方、例えばあの先ほどお話に出た、阪田清子さん(1972年生まれ、美術家)は新潟の出身ですけれども、山城知佳子さん(1976年沖縄生まれ、映像美術家)とか。

上原:そうですね〜。

小勝:あの世代の方は、ご両親から聞いてはいても、ちょっとそれほど実感はできない。

上原:そうね。

小勝:実感はできないことを逆に問題にされて、(山城さんは)ずっと沖縄をテーマに映画を作っていらっしゃると思いますけれども。

上原:そうですね。だから、自分のその経験とか、自分の立ち位置によって沖縄の捉え方が、やっぱり沖縄の意識の仕方、沖縄とどう関わるのかっていうのも、やっぱり年齢とか、そういう世代的なものはあるだろうなっていうのはよくわかります。

小勝:そうですね。それで、お兄様がまず東京に出られて、玉川学園ですか。玉川大学に進まれて。

上原:高校の時から行きましたね。(玉川学園高等部)

小勝:そうですか。その影響もあって、美智子さんも玉川(玉川学園女子短期大学)に。

上原:いや、私、玉川行きたくなかった。

小勝:あ、そうなんですか。

上原:進学校に行ったので、高校はもう挫折。1浪して、挫折して、もう本当に…。

小勝:高校時代は、別に、お医者さんを志望されて…

上原:はい。高校時代っていうか、小学校6年の時に国語の教科書にシュバイツァーのことが載ってて…。「森の聖者」(「密林の聖者」)っていう題名、よく覚えているんです。今でも教科書のあの挿絵を思い出すぐらい。アフリカのあの奥地で、オルガンを運んで。

小勝:医師というだけではなくて、音楽も一緒に運んできたっていう。

上原:なんか芸術っていうか、人の豊かさを持ちながら、アフリカの人たちに医療行為をしていって、病院まで最後作るんですけど。なんか人間ってこんなにすごいことできるんだって、心底感動したんですよ。だから、単に芸術っていうだけでなくて、今でも中村哲さん(1946-2019、医師。パキスタンやアフガニスタンで医療支援、用水路の整備にも取り組む。)ですか。一番尊敬する人、誰っていったら彼です。
やっぱり、人のそういう、世の中とか、自分以外のことに対する、あそこまでできる。しかも、ただ気持ちだけじゃなくて、運河まで、川まで作って、何十万人の人たちを現実的に助けることができるっていう人のすごさ。そういうことにすごく私、感動するんですよ。なんてすごい人。人ってこんなにすごいことできるんだな(って思った)。

小勝:で、それで、当初は医師を志望されたわけですか。

上原:高1くらいまでかな。高1か高2ぐらい。だんだん本読んだりして。あと、母が、兄の映画作りが興行で失敗したので、すごい借金抱えちゃったのでね。ほとんどお店の手伝いをしていました。学校から帰ったらね。中学まではそこそこの成績だったから、将来そうなろうっていう夢もあったんですけど。段々、高1、高2になる頃から、もう追いついていかなくなったんです、勉強がね。その代わり、本を読むことが増えたんですね。うん。だから、進路が少し変わっていったけど、なかなかでも自分の中でうまく切り替えが。
卒業しても一浪するぐらいだから、切り替えがうまくいかなかったんですね。進路変更の切り替えがね。自分の中で悶々として。でも、そうこうしているうちに、暗い青春だったんですけど東京に出て。玉川っていうところが、また自由で大らかな学校でね。文化は素晴らしい、芸術は素晴らしいっていうようなとこで。那覇高校っていうのは進学校だから、もうそんな音楽とかスポーツとか、そういうのをやるのは、勉強できない人が行くところみたいな。なんか、そういう風に吹き込まれるっていうか、刷り込まれる進学校でしたから。その切り替えを何年か時間がかかりましたね。当時また70年安保とか学生運動とか色々ある時代ですよね。そういう時代背景も大きかったかなと思います。自分の個人的な挫折と、東京に出て、学生運動が、例えば、あの新宿とか代々木とかいろんなところで集会があって…。私、沖縄の出身だけど、沖縄のこと何もわかんないなっていう自分に気づかされて、個人的な悶々と、沖縄のことの悶々と、進路どうするのっていう悶々と…。

小勝:なるほど、なるほど。それで迷っていらした時に、玉川短大の塚本先生から、柳悦博先生(1917-1995、染織家。柳宗悦の甥)をご紹介されて…。

上原:そうです。その前に民藝館(日本民藝館)に行ってごらんって、沖縄のものいっぱいあるよ、って。

小勝:この塚本先生、フルネームで何先生っておっしゃるんですか。

上原:塚本成雄先生です。

小勝:あ、そうですか。

上原:それで、えーっと。玉川にいらっしゃる前に、どこか女子校で教えられていたのよ。その時の教え子が、 柳先生のところに通っているので、彼女にちょっと話してみようかということで。その方を通して、柳先生のところに通うことができました。

小勝:はい。で、そもそもその柳悦博先生に弟子入りすることはとても大変だったそうですよね。

上原:なかなかね。入れなかったんですよ。人数が3名から、多い時でも5人はいなかったんじゃないかな。小さな工房でしたから。作家の工房ですから。「女子美を出てもなかなか入れてくれないよ。あなたはラッキーよ」って言われたんですけど。

小勝:これは、場所は民藝館の近くなんですか。

上原:いえ、住所は若林(世田谷区)です。

小勝:それは先生のご自宅ですか。

上原:はい。自宅兼工房です。

小勝:なるほど。その頃、美智子さんはどの辺に?玉川大学の近くにお住まいだったんですか。

上原:玉川の頃は狛江でした。その先生のところ入ることが決まったら、工房の近くの梅が丘に住むようになりました。

小勝:なるほど。

上原:歩いて、5分ぐらいのとこに、下宿屋さん探して。

小勝:じゃあ、その頃はもう玉川短大は卒業されて。

上原:はい。卒業する時も先生が「なんで幼稚園の免許を自動的に取れるのに取らないんだ」って、担任の先生に呼び出されて。「いいえ、先生、私この免許があったらまた戻るかもしれないから。ここしかないって決めてやります」って言ってから。一種の決意ですよね。

小勝:なるほどね。

上原:で、知らない世界ですから。美術の世界なんて知らないし。ただ、玉川はいろんなそういう機会が、チャンスがあったので。在学中から美術館とか色々なとこ行くようにはなりましたけど。

小勝:そもそもじゃあ、保育科みたいな学科だったんですか。

上原:そうです。幼児教育。子供は元々好きっていうので、教養学科と保育学科っていうのと、そこを選んだんですね。

小勝:なるほど 。

上原:で、玉川にいる時もまだ悶々として。織物に出会わない前は、心理学とかそういうのも好きだったので、編入してやろうかなって迷ったんですよ。この2、3年の間ですね。でも、やっぱり民藝館に行って、本当になんか乾き切った気持ちが、乾いたスポンジがこう水を得るように、あー、なんて気持ちがいいんだろうって、なんて無理のない世界なんだろうって(思った)。
で、当時は、例えば新宿に行くと、パフォーマンス。あの寺山修司(1935-1983 劇作家、歌人。「天井桟敷」主宰)とかなんかもう、すごいいろんなパフォーマンスがあったり、アートも「ぶち壊せー!」みたいな。なんか、ものすごく革命的な表現の嵐があったりして。何かもうちょっとこう暴力的、激しすぎ、 アジテーションばっかり(笑)。なんかちょっと違うぞ、違うぞって感じで。何もそこまでやらなくても、みたいなね。

小勝:何かその空疎な言葉ばっかりで、こうリアリティがないって、おっしゃって…

上原:うん!リアリティがない!なんかね、「我々は!」って(言っているけど)我々って誰?みたいな。なんかもうみんな、こうね、エイエイオーの世界だから。「ええー、ちょっと待ってよ」って(気持ちだった)。で、パフォーマンスするにしても白塗りでやって、もう必要以上に裸体になって。「なんかこれしかないの?」みたいな表現。じゃあ、自己表現って何っていう風に…。なんかちょっと違うかなって。だから、あんまり自分自分とか「絵はこうであるべき」とか、「芸術はこうであるべき」とか。なんか、そういう最初にこう「べき」があるのに対する嫌悪感ていうのかな。…嫌悪っていうか、距離感ですよね。

小勝:はい、距離感ですねー。

上原:ちょっとね、あー、自分にとってリアリティないなって。その時に、やっぱり「自分にとってのリアリティって何」ってなった時に、 素直に美しいと思ったもの。なんか、手触りがいいもの。心地よいもの。なんかすごく包まれる感じのもの。そして、気持ちが浄化されていく。気持ちが浄化されるっていうのは、とても私にとっては大事だったかもしれません。

小勝:なるほどね。その民藝館で、沖縄の色々な焼き物とか、芭蕉布とかの織物とか色々ご覧になって、その中で織物を特に選ばれたっていうのは何かあるんでしょうか。

上原:そうですね〜。本当は、焼き物でもよかったかもしれません。でもなんとなくやっぱり、登り窯に三日三晩(薪を)くべるような、なんか、あれ(話)を聞いたり見たりしていると「ご飯いつ作るのかな」とか、「赤ちゃんにおっぱいいつあげるのかな」とか(思っちゃって)。私はごく普通に幼児教育をしたってことも大きいと思いますし。元々ごく普通に生きたかったんですよ。この運動の中で、なんか殊更にリアリティのないものに囲まれていると、なんでごく普通でいいじゃないかっていう。そこから、何か確かなものが掴めるんじゃないかな。だから、ごく普通に子どもを生み育て、生活をしていく、日常生活を営む中で生まれてくるもの。それは自己表現じゃないけれど、何かを生み出すことはできると思ったんです。別に何か殊更に自分の内なる自分の何か表現を、っていうのも、なんか嘘くさい感じがして。

小勝:なるほど。

上原:時代が大きいと思います。

小勝:そうですね。

上原:70年代っていう時代はすごく大きかったと思います。

小勝:すごい激動のね、政治的な。

上原:あと、東京っていうのも大きかったと思います。

小勝:なるほど。

上原:で、沖縄の出身だったってことも大きいと思います。そして、大学受験を挫折したっていうのも大きかった。すんなり行ってたら、そこまで真剣には自分の「なんだろう、なんだろう」ってのは求めなかったかもしれないですね。

小勝:なるほどね〜。挫折の経験っていうのも大きいものなんですね。

上原:大きいです。要するに、自分のアイデンティティを探し始めたわけですよ。自分って何?何したいの?どうやって生きたいの?っていう。多分、そういうことかな。そういうことから出発しているので、美術とか工芸とかあんまり…(笑)。

小勝:そういうカテゴリーはどうでもよかった…

上原:どうでもいいんですよ(笑)、自分の中では。

川浪:対極として70年代のカウンターカルチャーというか、いろんなものが逆にそういうところにたどり着くために(必要だった)。

上原:そうですね。

川浪:こうじゃない、何かが違うって教えてくれたんですね。

上原:そうですね。何かすごく…うん。だから哲学書も読むし、思想書も読むし。高校の時はあの…娘盛り?(シモーヌ・ド・ボーヴォワール『娘時代』、『女ざかり』)

小勝:はい。

上原:なんだっけ。もうこの頃、人の名前がパッと出ない(笑)。要するに、私たちの場合は男も女もないっていう。理屈っぽくいうと、ウーマン・リブの教育を受けている世代なんですよ。男女平等。

小勝:うんうん。

上原:でも現実は違いますよ。お家帰ったら家の手伝いさせられるのは女の子だし。男女平等って男女も関係ないよねって。こうちょっと鼻息の荒いような高校生っていうんですかね(当時はそうだった)。

小勝:それで 柳先生の工房にいらしたのは、71年から…。

上原:2年半くらい。

小勝:そのあと74年に沖縄に戻ったというのは何かきっかけがあるんですか。

上原:そうですね。母が迎えに来たんです、とりあえず一度は帰ってきなさいと。
東京にいる時、お付き合いしている人がいたんですよ。結婚しようかなという相手が。で、母が迎えに来て、とりあえず1回は帰りなさいと言って。私を連れ戻す感じっていうか、私はあまり親の言うことを聞く年齢ではなかったんですけど。まあ、とりあえず1回帰ってみようっていったところから、私の人生がまた変わったんですね。 今のパートナーにすんなり出会ったわけじゃないんで…。まあ、プライベートのことだから、ちょっとなかなかね…。

小勝:そうですか…。

上原:お付き合いしている人をおいて、こっち(沖縄)に帰ってきて、誠勇に出会って、ここの生活が始まったわけです。帰るつもりだったんです(東京に)、もう1回。

小勝:あー、そうだったんですか。その誠勇さんと出会われたのは、74年に戻られてから?いつ頃ですか。

上原:そのくらいですね。74〜5年ぐらい、半年ぐらいしてから。

小勝:そうですか。どういうきっかけとか、その辺りはお話いただけますか。

上原:そうですね。本屋さんとか画廊巡りを東京から戻った頃してて、偶然なんですけど、全くの偶然ですけど、よく出会うんですよ(笑)。

小勝・川浪:(笑)

上原:当時は画廊だって少ないし、本屋だってそんなたくさんはないし。

小勝:当時、画廊があったんですか。

上原:そうですね。画廊らしき画廊はなかったと思いますけど、まあ、絵をちょっと展示するようなところがありましたね。で、たまたまよく出会ったっていうのが、出会いのきっかけではありますね。結婚に至るまでは、まあ、ちょっとね〜…。

小勝:ちょっとプライベートな…。

川浪:その頃、誠勇さんは編集(のお仕事を)されていたんですか。

上原:いえいえ。ヤギを30頭ぐらい飼いながら絵を描いていました。

川浪:そうなんですね。誠勇さんの絵が(室内の)あちらこちらに…廊下とか洗面所にもありますね。

上原:あれは昔の絵です。大きな絵を描いていましたし、発表もしていましたし…。絵が好きで、その辺でも話がよく合ったのかな。

川浪:ヤギも飼っていた?

上原:はい、ヤギを30頭ぐらい。自分で小屋も作って、1000坪ぐらいの、ちょっと段差のあるところに。「あー、これハイジの世界だな」と私思った。元々ハイジ好きだから(笑)。

小勝:(笑)え、美智子さんもお好きだったんですか。

上原:ハイジとか、赤毛のアンが好きでね。

小勝:そうなんですか。

上原:なんかこう、やっぱりこう自然がまずあるってことが、私の中では(良い)。だから、それも東京に戻らなかった大きな理由かもしれない。沖縄っていうのも選び取った感じですね。

小勝:なるほどね〜。

上原:沖縄=もうとにかく田舎に住みたかったね。都会ではなく。それは大きな理由ですよね。誠勇が絵が好きってこともそうですけど。沖縄の人間で、絵やそういうものに話が合って。農家の子供ですから、彼は。別に土地があるなんてその頃は全然関係ないけど、田舎の暮らしがどういうものかをずっと経験している人だから。あ、田舎の暮らしはいいなってのは昔から思っていたんですけれども…。あと、やっぱり沖縄というものを、私はある意味すごく意識的に選んだのかもしれませんね。

小勝:はい。

上原:結婚する時に。もう(東京に)戻らないって、決めたんです。

小勝:上原さん=沖縄であった。

上原:うん。そうそう。簡単に言えばですね(笑)。

小勝:沖縄であり、自然であり、ヤギのいる暮らしだった。

川浪:ご結婚されたら、すぐヤギと一緒に。

上原:その時はヤギだけでは食べていけないので、ちょっと勤めに出たりしてね。その辺はまた彼の人生ですから。まあ、やっぱり話が合いますよね。美術とか焼き物にしても。あと自然に対する考え方とか。感性が、そういうところで共感するところが多かったですね。

小勝:なるほどね。

上原:だから多分、そのお付き合いしている人とそのまま結婚していたらどうなっていたかっていう。真逆な生活を私は選び取ったんです。

小勝:そうだったのですね。東京に戻られて、都会の暮らしだとまた違う?

上原:違う。織物っていってもまた違うことになっていたかもしれませんね。

小勝:そうですよね。

上原:私自身のこの考え方の方向性も変わっていっていたかもしれないし。そこまで沖縄のことにこだわらなかったかもしれないし。それは本当になりゆきですね。もう70も過ぎて考えるとね、うん。その時はもうすごいドラマチックなことが起こってしまったなんて思うけど。そんなことみんなにあることで。そうそう、みんなにあることで、自分だけ特別なことでもなんでもなく。誰にでもあることで、私の場合はそうだった、というだけで。で、なりゆきだったんだなって思うんです(笑)。

小勝:そのご結婚されるのと、それから沖縄に戻られてから大城志津子さん(1931-1989染織家)に師事されるということで。それは時間的にはどっちが先なんですか。ご結婚されるのと。

上原:同時並行です。沖縄に帰って来るからには、沖縄の勉強をしたいって気持ちがあって。しばらくしたら、そういう人と付き合いだしたのかな…。 前後していますね。

小勝:大城志津子さんのところでは、沖縄の伝統的な織の技法を学ばれたわけですか。

上原:はい。先生は、琉大(琉球大学)の絵画をやって…、途中で辞められたのかな。それで、女子美(女子美術大学)に入り直して、そこで洋画の方だったんです。当時の柳悦孝先生(1911-2003 染織家。柳宗悦の甥)、私の先生のお兄さんですね。一応、女子美の洋画を出た後に原田麻那さん(1922-2006染織家)のところで勉強している時に「沖縄の織物したいんだったら、僕のとこいらっしゃい」って悦孝先生のとこに誘われて、そこで勉強なさったそうです。だから、女子美では染織ではないんですね。ちょっとモダンな感覚の先生だったので、「伝統工芸」っていうところではないんですよね、元々。タペストリーが得意でしたし。

小勝:大城先生に師事されたっていうのは、何か、ご紹介とかがあったんですか。

上原:柳悦博先生のご紹介です。

小勝:なるほど。

上原:最初は「宮平初子先生(1922-2022 染織家)のところ行きなさい」って言われたら、「あー、あなたは柳先生のところでたくさん勉強しているから、うちに来ても勉強することないよ」って断られて。そしたら大城先生のところに「すいません。入れていただけたら嬉しいんですけど。沖縄の技法、勉強させてください」って言ったら、すでにたくさん弟子がいたのですが、以前、柳先生の工房で糸作りをしている時に、たまたま大城先生が訪ねていらしたことがあって、そのことを覚えていらして、それでご縁をいただいたんです。
柳先生と大城先生に教えを受けたことが、今でも私の宝物です。

小勝:なるほどね〜。

上原:だから、柳先生のところでは、私はそういう機織りを沖縄で見たこともなければ、興味もないから、織物するって決めた時、先生のパタパタって足で踏むのを一生懸命見ながら、スポンジが吸収する(ように)、なんかもう目を皿のようにして、先生のやり方とか、先輩のやり方を見て(学んだ)。 どこそこで展示会があると聞いたら、一緒に連れて行ってもらったり・・・民藝館だけじゃなくて、いろんなところに出かけて行ったりして刺激を受けました。

小勝:素晴らしい出会いが続きましたよね、ほんとに。

上原:もう必死になって、私も求めますから。何か先生もそれを汲んでくださったのかなと思いますね。

小勝:まあその中でご結婚されて。先ほどもおっしゃっていました、生活のためにはやっぱり何か収入を得なくてはいけないというのもあると思うんですが、その収入のためには、当初は誠勇さんの方はお勤めされたりもしたとか…?

上原:そうですね。

小勝:美智子さんの方は、そういう収入に関わることっていうのは、特に最初は…

上原:ないんですよ。それでですねえ…ここからです。バトルが始まるのは(笑)。ここまず、27歳と29歳の時にこのお家を作ったんです。原野に作ったんです。全くの原野で、誠勇が財産分けっていうか、畑にならない、もうススキ野原だったんです。そうすると、お家を作っていいっていうことで。最初はあんまりお家を作ってというよりは、ちょっと2人でバックパッカーよろしく!あちこち回ろうか、みたいな夢を語っていたんですけど(笑)、とりあえず居場所を決めて、じゃあ作ろうって、誠勇はああいう人ですから、自分のヤギを飼ってるところに、古いバスでも買ってきて、そこでやろうとか言ったら、うちの両親にものすごい怒鳴られて。まあ色々、そういうことあって。原野にとにかくお家作ろうということで、割と早めに作ったんです。お金が一銭もないんですけども。ものすごく安く作って。庭なんかも今のような庭でなくて、原野だったんですよ。サトウキビ畑にポツンと、ブロックのお家がポツンとあるようなお家だったんですよ。もう40年でこんな変わっちゃいましたけどね。それで…なんでしたっけ。

小勝:そこで、どのように収入を得てらしたか。

上原:それはやっぱり、絵とかヤギでは当然食べていけませんので。元々電子関係の専門家なんです、彼は。全然絵ではないんですよ。そういう会社に勤めて、給料もらって、生活を成り立たせていたんですけど、それでもやっぱりなかなか大変で。自分の思ってるような人生とは別になって。次に、「青い海」っていう雑誌社に入るんですよね。そこも貧乏な出版社で(笑)。だから、ものすごく現金がない生活だったんです。で、ここ(南風原)に移ったと同時に長女が生まれたんですけど。その時、私、母を同時に亡くしているんですよ。その11ヶ月前には(兄の)金城哲夫が亡くなっているんです。その1年ぐらい前には、次兄がものすごい交通事故に遭って、もう生き返らないだろうなっていう。自分の実家の不幸が立て続けにあって、誠勇との結婚生活が始まったのですが、幸福なのか、不幸なのかわからないような。次々、肉親が事故に遭う、頼りにしていた大蔵省でもあった母も亡くなる。貧乏というのがどういうのかわからない(状態だった)。

小勝:すみません。それは何年のことでいらっしゃいますか。

上原:母が亡くなったのは、娘の美野が今46(歳)ですから…、46年前です。

小勝:46年前(1977年)

上原:美野が生まれる前、お母さんもうすぐ生まれるよという時に…(美野さんがお腹にいて)6ヶ月の時に突然死したんです。その11ヶ月前に哲夫が事故死したんですよ。酔っぱらって 2階から落ちて。海洋博のことでもう、ぐちゃぐちゃになってですね。精神的にやられて。立て続けに肉親の死に目に遭うって。まあ、次兄は生きていますけど。元気ですけど。この次兄の交通事故に始まり、その二年ぐらいの短い間に色々なことが次々と起きて、幸せなのか、なんなのかわからないような時期でしたね。

小勝:なるほど。

上原:そうそう、子どもが生まれて。年子ですから。美野が2歳、 奈緒が1歳。私が30歳の時にこの工房を作ったんですよ(1979年)。それまでそこに機を置いて。トイレの片隅にガスボンベ置いて、染めてやっていたんですけど。そりゃあ、赤ちゃん生まれたら機にも座れない。昔は、(布)オムツですから。離乳食なんて売ってもないし、もちろん、おっぱいとりんごすりすりですよね。オムツを替えては洗って、そこに干してっていう、1日があっという間に終わるんです。私の中ではお金がない生活っていうのが具体的には想像できなかったけど、現実はないわけですよ。お金がね。そうすると誠勇が、「お前も子供も生まれたんだから、機織りやりたいのは分かるけど、ガソリンスタンドでも、スーパーのレジでもいったら、5〜6万はもらえるから」って。その時の誠勇の給料が12万だったんです。 沖縄、いくら安い給料って言っても、12万はないんですよ、あり得ない。でも、もう貧乏。出版社も潰れそうな出版社でした。「お願いだから、お金いらないから、持ってくるお金だけでなんとかするから、私に時間ちょうだい」って言ったんです。

小勝:それはすごい!

上原:だから、一度も行かなかったんです。もう一生懸命織っては、知り合いの人に「帯買って。これ作ったけど、どう」って言って。その時母がいないから。多分母が生きていたら、大蔵省になったと思うけど。でも、それだと今の私にはなれなかったと思う。

川浪:その時お父様は…?

上原:父は私を勘当したんですよ。子どもが少し大きくなったら許してくれましたけど。

小勝:それは…(理由は)

上原:結婚。もう反対。ものすごく反対。「こんな、なんで田舎に行くか」みたいな。だから、もう…。

小勝:それはもう、孤立無縁ですね。

上原:そう、孤立しちゃったんですけども、友達が助けてくれた。この親友も40(歳)手前に亡くなっちゃったんですよ。大事な人を私、たくさん失って。だから、すごく命って何かなってのいうのを…、なんていうんですかね。概念ではなくて、すごく身体を伴って命っていうのを考えちゃうんですよ。だから6ヶ月身ごもっている時に母が突然死する。でも、生まれておっぱいあげないといけない。オムツも洗わないといけない。涙ポロポロ出しながらお乳をあげるんですけども。でも、せっかく生まれてきた命をこう明るく育てないといけないじゃないですか。

小勝:はい。

上原:だから自分の中での気持ちの向き合い方、持っていき方、収め方。それはもう現実の日常の生活の中で学んでいくんですよ。泣いてばっかりじゃいられないじゃないですか。泣いたらお乳もあげんといけないし、オムツも替えないと、洗わんといけないし。これがごく普通じゃないですか。人が生きてくって。それをやっただけなんですよ。ごく普通じゃないですか。

小勝:ただ、あの、普通の人はおそらく、その子育てや、それから収入とか考えて、(夫に)パートに出なさいって言われたら、パートに出ちゃうと思うんです。

上原:「お前わがまま」って言われて(笑)。私、全然、自分でわがままって思ってなかった。それ以外に考えられないから。

川浪:さらに工房を建てると。

上原:うん(笑)。

小勝:そこがやっぱりね、すごいです。美智子さんの非凡なところですよね。

上原:もう1日があっという間に終わるんですよ。おっぱいあげて、オムツ替えて。次女がまだ1歳で、長女が2歳なので。 私、何のためにすごい一大決心して、織物して、勉強して、結婚して、沖縄まで帰ってきて。自分で意図的に選んでチョイスして…なんだったの、今までの自分、と思って。このままじゃ絶対織物をやらなくなると思って、父親に拝み倒して「お願いだから、お父さん、150万貸して!あとの100万は公庫から借りてくるから」って言って、250万で工房を建てたんです。最初12坪の掘っ建て小屋みたいな工房でした。最初から赤瓦でしたけど。で、私、丑年なんですね。牛さんはすごいのろのろ。野原でモーモーって言っているんですけど、立ち上がって、走り出したらもう止まらない。自分でも止められない。やりきるまで、工房を作ると思って。織物するって決めたら、やらずにはおれなくなるんですよ。普段はとっても呑気なんですよ、私。

小勝:そうですか(笑)。

上原:楽しいこと大好きだし。愉快なこと大好きだから。

小勝:でも、その織物自体が楽しいことですよね。

上原:うん。それで、やっぱり(織物を)作りました。最初はお金にならなかった。でも、一生懸命織ることによって、周りの人が少しずつ買ってくれるようになった。だから、収入は織物以外に得たことがないんです。

小勝:なるほど。

上原:少しずつ展示会にグループ展に出すようになったり、食べられるようになったんですけど。10年以上ぐらいは厳しかったんじゃないかな。

小勝:工房を作られてから。

上原:うん。誠勇は、生活費はもちろん十分ではなかったけれど、一応生活して。彼も青い海(出版社)を辞めたあと、企画画廊だけですからなかなか厳しかった。(貸画廊のようにレンタル料を取らない画廊。画廊が企画した作家たちに展示を依頼する)

小勝:誠勇さんがこの画廊沖縄を作られたのは何年ですか。

上原:えっと…工房が先(に建てた)です。それで2年後に、前島で立ち上げたかな。その辺はちょっと誠勇の方がよく覚えていると思いますので。(1981年創立)

小勝:ほぼ(工房と画廊沖縄を建てたのが)同時というような…。

上原:そうそう。

川浪:本当、すごいご夫婦ですね。

小勝:ねー!

川浪:競うように、わが道を行く!(笑)

上原:はい。で、私も彼の邪魔したくなかった。画廊をするって。会社っていっても大した、給料のいい会社じゃないけど、辞めて画廊やろうとしているなか、大城先生に「美智子さん沖縄で画廊なんて3ヶ月も持たないよ。やめるように言った方がいいよ」「そうですよね」って言ったけど。誠勇はやりたいって言うし、私も「面白ろそう、やりがいがありそうだからやったら?」って。全然反対しなかった。「私もお金はいらないから、なんとか工夫するから時間ちょうだい。働きには行かない。」(って言った)。帯を織っている時はまだいいです。1987年ぐらいから、細い糸でなんとかしようと。それまで私は「伝統工芸でもないし、着物、帯…いや〜」って。服地を織ったりしてたんですけど、細い糸がたまたま手に入ったので、これ普通に染めたらボソボソになって、糸の状態でなくなるんですよ。毛羽立ってくっついちゃって。で、それでも捨てるのもったいないから、なんか1日に1管(くだ)も巻けるかどうかの作業を、誠勇が「こんなことして何してるか」って。「機燃やすぞ」って(笑)。あそこも必死だから。現金がないってこういうことかなってのをつくづく思っていたんですけども。それでも私には「貧乏にも意味のある貧乏がある」って(思った)。

小勝:なるほど。

上原:自分が本当に心底やりたいことを徹底してやる。言った先、それ成功するとか成功しないとか関係ないんですよ。今やりたい、やらずにおれないかどうかなんですよ。もうそれの積み重ねですよね。やらずにはおれない。これ以外にやる自分は考えられない。そうやったからって成功するとかっていう言葉は全然自分の中にはなくて。ただ一生懸命、やりたいことをこう徹底してやるっていうことかな。

川浪:貧乏でそれでも織を一生懸命やって、だんだん買ってもらえる人が増え、お友達が買ってくれたりしていた時、発表するところもあったとおっしゃっていたと思いますが、例えば、どんな(発表を)?

上原:グループ展を自分で企画して。例えば画廊沖縄でやった時には、私が仲間に声かけて。

小勝:81年に画廊沖縄にて「三工房展」ていうのがありますが。

上原:やらない?って言ってやって。それを見た勝さんって、今はもう亡くなられたんですけどて、 琉球和紙の紙漉きの勝さんに声をかけてもらって、有楽町西武のアートフォーラムで大きな展示会をさせてもらったんですよ。

川浪:これは、この81年の展覧会とは別で?

上原:はい、別ですね。その(画廊沖縄の展示の)後ですね。画廊沖縄の展示をみて「沖縄でこんなことできる人たちがいるんだ」って言って、彼が声かけて。当時の西武はセゾン(美術館)があったり、いけいけドンドンの時代でしたから。すごいお金かけて会場設営して、私たち10人行って展示会をして、そこからそれを見た人たちが「展示会しませんか」とか、雑誌『銀花』の取材が来たりとか。私もスタジオファイブっていう、インテリアのフロアだったんですけど、そこを借りて(個展をした)。子供たちがまだ小さかったんですけれど…。

川浪:80年代ですね。

上原:80年代です。

小勝:勝さんとおっしゃるのは、紙を漉く方ですか。

上原:勝さん。カツキミヒコさん。(勝公彦1947-1987 紙製造家)
   芭蕉紙を復活させた方です。

川浪:物を作る若手の人たちの間で、なんか新しいことやりたいっていう動きがあったんですね。

上原:あったんです。熱気がありました。沖縄の染織界に熱気があったんです。伊差川(洋子)*さんって、もう亡くなられたんですけど、紅型の方が私たちに声をかけて。私の最初の個展は、彼女が自分のギャラリーでやってくれたんです。*伊差川洋子(1946-2017 染色家)

小勝:あー、それはえっと…

上原:びんくらふとギャラリー(https://www.bincraft.com/)ですね。そこからですよ、いろんな人が見にきてくれて。

小勝:「あけずば織」と命名される前に、このセミの衣と書く「蝉衣展」(1989年)。

上原:最初の蝉衣展は、びんくらふとギャラリーでやって。なんかお坊さんの袈裟のイメージだなと思って。もっと沖縄らしいものを命名したかった…。沖縄の古典舞踊に「かせかけ」というのがあって、父が芸能好きでしたから、それは良く知ってて。「あけずば」っていう言葉も知ってはいたんですけど、ただ自分の織物と結びつけることなくて。 蝉衣展終わって、発表した後から「ちょっと違うぞ」と思って。高校の同級生に、『おもろさうし』の研究者(嘉手苅千鶴子)がいたので、彼女に「私、あけずばって言葉使いたいのだけれど」と言って、「ちゃんとした根拠を知りたい」と言ったら、彼女が琉歌を何首か教えてくれたんです。彼女は、色々調べたものをコピーして手紙と一緒に送ってくれたんです。

 「七読と二十読(ななゆみとぅはてぃん) 綛かけておきゆて(かすぃかきてぃうちゅてぃ) 里が蜻蛉羽(さとぅがあけずば) 御衣(んしゅ)よす(ゆすぃ)らね(らに)」
(訳:ごく上等のカセ(経糸)をかけておいて 愛しいあの方のために蜻蛉の羽のように美しい着物)

「七読と二十読(ななゆみとぅはてぃん)」って とっても細いっていう意味。とっても細かい筬(おさ)っていうのは、つまり細い糸ってことですよね。「七読と二十読(ななゆみとぅはてぃん) 綛かけておきゆて(かすぃかきてぃうちゅてぃ)」って経糸(たていと)を機にかけて。「綛(かすぃ)」っていうのは、経糸のこと。経糸を機にかけてね。「里(さとぅ)が」ってのは「愛しい方」(という意味)。里主というんですよ。もちろん身分の高い人のことなんですけど。「里が蜻蛉羽(さとぅがあけずば)」って、ここに出てくる里主に「蜻蛉(とんぼ)のような、薄い織物を織って差し上げたい」って歌があって。
それ「綛掛(かせかけ)」っていう、古典琉舞の(歌)。美しいでしょ。「七読と二十読(ななゆみとぅはてぃん) 綛かけておきゆて(かすぃかきてぃうちゅてぃ)」って。

川浪:言葉と声が素晴らしい!

小勝:響きがきれいですね。

上原:蝉衣じゃないな、これは!って。蜻蛉羽(あけずば)!そこからもらったんです。

小勝:なるほど。

上原:そしたら、あとから宮城県の人から自分のところでも「あけず」って言うんです、って。だから古語なんですね。「あけず」って。(*秋津島(あきつしま)は、日本の国または大和国(やまとのくに)の古名の一つ。あきつくに。あきつしまね。『日本書記』において神武天皇が国土を一望し、トンボのようだと言ったという逸話もある。)

川浪:あきずば?ですか。

上原:あけずば、ですね。この方言は、おじいさん、おばあさんは「アーケージュ」っていうんです。とんぼのことを。また、沖縄でも地域によって発音がちょっと違いますけど、基本的には「あけずば」って言う。これは、ローマ字で書いてもakezuba。

小勝:ほんとうに響きがいいですね。

上原:それから、トンボの羽って漢字で書いても綺麗。ひらがなで書いても「あけずば」って綺麗。響きもいいし、字面もいいし、なんかグローバルな感じもするし、 綺麗な言葉だな、名前だなと思って。嘉手苅千鶴子(1949-2001)さんって、このおもろの研究者の彼女も、すごく若くして亡くなったんですけど…。今でもその手紙は大事にとってありますけど…。 そうやってやっぱり沖縄にこだわるのも別に、沖縄の伝統工芸のこの柄がどうのとかっていうんじゃなくて、もっと深いところでの沖縄の文化のこの「香り」って言うんですかね。えも言われぬこの沖縄文化の何か、この「膨らみ」みたいなものをこの言葉に(感じた)。
 私にとって沖縄とか工芸とか伝統工芸とかっていうのは、ゆりかごのようなもんですよ。伝統はゆりかごだなと思うんです。 否定するものでもないし、超えるものでもないし、壊すものでもない。揺籃っていうのかな。こうやって、自分がここから色々と芽を出すっていうか。そんなイメージですね、伝統って。

小勝:なるほどね。

上原:ぶち壊すものではないんですよ。だから、現代と伝統ってよくね、対峙したり…。だから、美術と工芸も対するって言ってるけど、命の根源から考えたら、そんな対峙するようなもんでもないんですよね。ジェンダーも私、そうなんですよ。男だからとか女だからはないんです、人間。

小勝:そうですよね。

上原:人間として対等だと。ただ、男は赤ん坊も産めないし、力は強いっていう部分あるけど、人間として対等っていうのは根幹にあるので。立てるところは立てますけど。別に卑下することは全くないし。

小勝:当初、「あげずば」と表記されていたのは…

上原:「あけずば」です。よく間違えられるんです。

小勝:わかりました。その「あけずば」を、どんどんその糸が細くなっていかれるわけですよね。究極がその3デニールっていうんですか。

上原:はいはい。見てみますか。

小勝:そうですね、ぜひ。

上原:じゃあ、後で見てください。

小勝:ありがとうございます。そのあけずば織の個展を開かれていって、反響がすごかったわけですか。皆さん、びっくりされるような…

上原:そうですね。まず、今回のこの企画を太田雅子さんは、沖縄のコーラルウェイとか、長年沖縄の取材をよくしているフリーライターなんですけど、私を一番最初にメディアに紹介したのは彼女なんです、30数年前。びんくらふとギャラリーでの初めての個展を、彼女見たんですよ。沖縄でこんな織物する人いたんだと思ったそうです。今織っているのと変わらない(細くなった)もの(を見てもらった)。この透け感とか、かすりが入っているのとかは、もうすでにあけずば織はその時点で大きなものを織っていたんです。スタジオファイブかな。有楽町でやった時。この時もあけずば織だけ出しました。

小勝:そうですか。

上原:だから、割と早めにあけずば織は、大きなものはショールという(サイズ)よりも、大作を作ってた。自分の中では大作じゃない。大作とかイメージもないですよ。なんていうのかね。自分にとって当たり前なんですよ。このサイズで作る。かすりをこうするっていう。その時は、それ以外ないって(思ってた)かな。

小勝:どんどん細い糸で織りたいと思われたっていうのは、どういうところからですか。

上原:自然のなりゆきです。

小勝:おー、そうなんですか!なんかこう空気を織るみたいな、そういうイメージでしょうか。

上原:冨田さんの時(かわさきIBMギャラリー)はね、まだ3デニールはなくて、3.7(デニール)ぐらいまではあったんですね。ほとんど変わらないですけど。彼女と色々話して、彼女は、文章でいろんなこと書いてくださったんですけどね。多分、それ以外の会話で、私、あの時、自分は「空っぽの器」っていう話を彼女にしたと思うんですよ。最近は、アンテナみたいな感じになってきていますけど。自己表現ではない、元々自己表現ということではなくて、動かしているうちに何か、やっぱり人って考えながらやりますから。感じながら日常生きていますから。そこから出てくるものが、自己表現を超えたもの。要するに、生まれてくるもの。「生まれてくるもの」と言ったら、よく神がかってどうのこうのって、それと真逆なことなんですけど。全然違うんですけど、そうじゃなくて、なんだろうな。例えばものすごく理論武装した人たちとか、芸術論をこうガチっと持っている人たちは1つ1つ窓を開けて「これそうかな」とか、扉を開けてちょっと大きめのものを入れてって、いちいちこう1つの自分の意識を開けているじゃないですか。

小勝:はいはい。

上原:それってものすごく大変なエネルギーだし。時間かかるし、納得するまで。そうじゃなくて、そういう西洋的な考え方じゃなくて、やっぱ私、高校の時も老荘思想っていうのに、すごく惹かれて。なんか、そういう考え方も、東洋的な考え方のすごさってのはどこかにあったんでしょうね。で、40代でも50代でも、そういう関係の本を読んだりしていて。何か意識でとか、概念とかで獲得していって構築するんじゃなくて、なんかパカっとこう、自分を全開した時に入ってくるものの方が遥かに豊かで大きいんじゃないかなって。毎日の日常生活をしながら自分のこの感覚や魂っていうのかな、それは全開してる、解き放たれている方が(良い)。いちいち意識的に窓を開いて、この論がどうだ。この説がどうだって確認するより、なんか無理がないし、私には合っているんじゃないかなと思ったんですよ。だから、もう少し自然体っていうか、自然体って言ったって何もしない自然体っていうわけじゃなくて、自分に合う方法を模索したのかなって…。今振り返ると。自分の方法をちょっと見つけたかったんでしょうね。

小勝:なるほどね…。

川浪:冨田さんと話をした時は器って言ったかなとおっしゃっていて、でも今はアンテナと。なんというか今の話を聞いてて…

上原:もう器ですらないっていうか、うん。

川浪:器であり、アンテナでもあり。

上原:器って空っぽの方がいいのよねって言うけど、窓とかドアはまだ器だったんですよ。今、空気みたいになっちゃった。もう少しこだわらないっていうかね…。

小勝:なるほど。

川浪:すごく自覚的。ちゃんと選んで進んでいらっしゃいますが、そういうなりゆきなんだと何度もおっしゃられる。なぜ布なのか、染織だったのかというお話の時に、子どもを育てながらの普通の暮らしだったとも。どうしても表現者といえば、ストイックに、なんかこう研ぎ澄ましていく(のが当たり前)と考えがちで…

上原:普通はね。

川浪:一つ限界を超えたら、さらなる高みへ!みたいなイメージをつい持ってしまうんですよ。

上原:そうそう。ヨーガン*さんところでも、もう3デニールやった後に、いろんな人が見に来たりして「その次どうするんですか」って(聞かれた)。ヨーガンさんところだけじゃなくて、展示会をすると、3デニール持ってみんなに見てもらって触ってもらって「もうこれ極みだからこれ以上細い糸ないし、次どうするの」ってみんな聞くんですよ。え、次どうするのって言われたって、もうそんな言われたって…(笑)。
で、ヨーガンさんの時にその3デニール終わった後に展示会があったんですね。もうね、もう細いのやりきった。自然に今度はね、メビウスの輪じゃないけど、「祝祭」っていう言葉が出たんですよ。だから、ざっくりした紬のようなものに、鳥の羽を織り込んだり、漆の糸を入れてみたり金糸を入れてみたり。 もう3デニールって究極のミニマルじゃない。
*ヨーガン・レール(1944-2014) テキスタイル・デザイナー、ファッション・デザイナー。
 上原美智子は、2006年夏にヨーガン・レールのショップ「ババクーリ」清澄白河で個展を開催した。

小勝:はい。

上原:今度この行き着くとこまで行ったら、あ、メビウスの輪みたいな、生命の爆発とは…言わないけど、岡本太郎じゃないから(笑)。生命の何か循環っていうのか、円でもなくてね、メビウスの輪みたいな。こういったら次こういくしかないじゃん、ってなりゆきですよ。生きてるってことは、動いてることですよ。やっぱりなんか生命が溢れてるっていうのが、子どもが「あ!トンボきれい、蝶々、きれい」っていうのと一緒で、そういうものを今度はまた自分が作るっていうのかな。羽根があってもいいじゃないっていう。伝統工芸(の人が見たら)「なんで、織物に羽根なんか入れるのよ」って。「いや、ペルーの王様の衣装に、羽根があったよ」みたいな、ね。なんかもっと自由自在、解き放たれるっていうのかな。

小勝:なるほどねー。

上原:でも、この解き放たれるのはね、広島(「交わるいと」展、広島市現代美術館、2017-18年)のあの3.7デニール、ラック赤があったのご覧になりましたか。

小勝:ありました、はい。

上原:私、竹口さん(竹口浩司、広島市現代美術館の担当学芸員)に言ったんですよ、アーティスト・トークの時に、「これ実は失敗なんです」と。でもね、その時は織ることに対しては失敗だったかもしれない(けれど)ボソボソになった糸をほぐしているうちに、なんか美しいんですよ。そして、3デニールよりも時間かかったんです、これ。ゴチャって捨てたら終わりですけど、解きほぐしていくって、やっぱりものすごい神経つかう。切れるしね。でもこれ見たらなんて綺麗なんだろうって思って。途中から箱に入れて、捨てないようにして、1本も捨てないようにして、やったんですけど。これ一応何センチかは織ってあるんですよ。

小勝:あ、そうなんですね。

上原:これ織れてるんですよ。このぐらいスカスカですけど。切れながら通す時もプチュって切れるし、踏んだらプチュプチュプチュって切れるし。それでも悔しいから織ろうと思ったんですけど、1週間ぐらいやったんですけど。もう経糸を切って機から下ろすしかなかった。そのときは、言葉にならない気持ちでしたね。自分の言葉がまだその時はなかった。で、私、丑年ですから。4つの胃袋って…(笑) とりあえず吐き出すけど、また飲み込んで「え〜違うよな」って。また食べて、1回また吐き出す。やっぱりしっくりこないよって。消化するまで気が済まないんですよね。少しずつそれに対しての自分のこの解釈の仕方、言葉が少しずつ紡がれていくんですよ。織り上げることができなかったという点では、ラックの作品は失敗だったかもしれないけれど、糸そのものの美しさに私自身が魅了されたことは新たな発見で、たぶん出品につながったんだと思います。私は織るということにすごくこだわってやってきた。これは、その後もすごく改めて織ることが大好きっていうのはよくわかったんです。これと同時のフロアに平野薫さん(1975年生まれ、美術家)(*)の(作品)がありましたね。それは展示をする前に2人呼ばれて「会場ここにしますけど」って言って、彼女はその時に初めて紹介されて、こういう作品ですよって。あ、なんか直感的に「あ、アートだよな」って。塩田千春さん(1972年生まれ、美術家)も県美でやった時(**)にもう同じ。「あー、アートだよな」と思って。何かどう違うの。いろんな言葉があるんでしょうけど、私の中で「これしたいの?私」「こういう方向に行きたいの?」って。いやいや、私はやっぱり織りたいんですよっていう。じゃあ、この違いって何、何がこのアートとして感動するんだろう。自分は工芸の中で「もの作り」。文脈で分けるとね。この違いって何かなって。やっぱりこれをやることによって、ものすごく切実な問題っていうか、自分で言葉を…でも、やっぱり私は評論家でもないし、そういうことでもないので、なんていうかな…これは素材そのものが、私の手は加わってはいるけれども、より自立していますよね、糸として。糸として、織るという行為から解放されたんですよね。物そのものが私のものじゃないんですよ。糸そのものが「在る」んですよ。
* 平野薫 https://asianw-art.com/hirano-kaoru/
**「ゴー・ビトゥイーンズ展 こどもを通して見る世界」、沖縄県立博物館・美術館、2015年1-3月。森美術館、高知県立美術館から巡回。その後、「塩田千春「いのちのかたち」」展、那覇文化芸術劇場なはーと、2021-22年を観て、さらに再確認したという。

小勝:おおー!

上原:糸そのものが私から解放された。糸が、私からリリースされたということですかね。私は織るということに、まだ捕らわれていたんだなと思って。この頃、1番新しいcomo(ギャラリーcomo、東京都南青山、個展「糸との旅」2022年11月)のものがありますよね。

小勝:はい、こちらですね。(comoの個展パンフレット「糸との旅」を見て)

上原:この展示会では、コロナ禍の間に取り組んだ、様々な細太の植物繊維を織ってみました。本当は私の今の心境は、去年からコロナにかけての、この長い長い24メートルの苧麻(ちょま)を織って、段々に変化したのは…私は究極細いものをやっていたら、この太いものもやるようになって。さっきのメビウスの輪じゃないけど、さらにメビウスの輪よりも今のしっくりくる言葉は「脱皮」なんですよ。

川浪:脱皮!

上原:私自身がこだわらないわけじゃないですよ、もちろん。作る時はどの色に染めようとか、何分染めようとか、いちいち技術がくっついてきますけども。作品もさっき言ったようにリリースされるし、私の考え方や気持ち、自分ではこだわってなかったと思っていても、何かこう色々膨らんでくると、自然にことの成り行きでそうなりますって。自然に脱皮するように、ハブが脱皮するように、あるいは甲殻類も脱皮しますよね。あるいはセミだってこの殻を破って。木だったらこう同じ根っこがあって、枝が茂ってきたなとか、幹が太くなったなっていう一連の続きですけど、動物の爬虫類とか動物のものは、「もうこれ以上この殻には留まれませんよ」って言って、自然のなりゆきで脱皮するじゃない。

小勝:はい。

上原:どちらかというと、この心境に近いなって感じ。だから、脱皮し続けられたらいいよなって今は思いますね。だから、80のばあさんなっても90まで生きているかどうかわかんないけど。なんか、80は80なりの脱皮ができたらいいな。

小勝:素晴らしいですね、本当に。

川浪:そういうことですよね。

上原:ちょっと脱皮って言葉はこの頃でね。いろんなことすることによって、脱皮した感覚が少しわかったし、ひょっとして80はまだなってないので80になった時にも、まだ脱皮していられたらいいなって。最後の質問にちょっと近いですけど。これからやりたいことといったら、具体的に作るものではなくて、どういう状況の自分でいるかっていうことが一番大事なんですよ。そうすると、自ずと作っていますので。作ってないことは考えられないので。どういう状況で、自分が糸や織ることや、生活や生きることに向き合っているのかな、そして、言葉を紡ぐことができるかな(って思います)。今は、「脱皮」という言葉がしっくりきているけど、80になったらまたなんて思うのかなって思いますね。

小勝:その時々の「脱皮」がこれから繰り返される…素晴らしいですね、本当にいいお話…

川浪:表現者として次のテーマは、みたいなお話伺うのもそれはそれで大事なんですが、将来何を作るかではなく、どういう自分であるか、どういう状況の自分であるか、それが一番興味あることなんだと先輩の女性の立場から言われると、ほー!(って思います)。

上原:うん、そう思いますよ。具体的に何作りたいとか、あれしたいとかは、思い浮かばないですよ。

小勝:ま、具体(的なこと)は後からついてくるみたいな…ね。

上原:手が動いてれば、「あら、こんなのできちゃった」みたいな…

小勝:それが一番の究極のね、いい状態ですかね。いや、なんかすごくいいお話が思った以上に、いくらでも湧き出てくるお話を伺えて…(よかった)。

川浪:今までのたくさんのインタビューの文章からもお話上手な、すごく聡明な方だなと思っていましたが、もう本当に見事に…

小勝:語ってくださったと思います。

川浪:こういう状況下で、みんなこれからどうしようかと不安を感じて(いるので)…

上原:それはね、今のご時世っていうかね。この子たちの世代もそうですしね、20代の子供たちもそうですしね。

川浪:大丈夫かな、とか。

上原:そうですね。質問に対して、ちょっと朝、読ませていただいて…。

小勝:はい、何かございますか。でも、もう今のお話で結論に達してしまったというか…(笑)

川浪:80、90になっても100になっても、言葉を更新していってください。

小勝:常に脱皮し続けてください…(という)

上原:(質問のプリントを見ながら)10(*)のところが…
(*)金惠信が用意した質問「10. コロナ禍もありこの三年で世の中は大きく変わった気もします。
いま、上原さんと美術の関わりについて考えておられることについて聞かせてください。
今までの美術に関する活動の中で何が一番良い出来事で、何が一番悪い出来事だったか。また、これから何をしたいと思っているか。これだけは言っておきたいということがあれば自由に話してください。
特に、沖縄で美術を学んだり、制作を続けている女性アーティストたちに向けての一言をお願いしたします。」

川浪:沖縄で学んでいる、この女性たちに、ってとこですか。

上原:えっと、あのお聞きになりたいことのあれは、9番とか?

小勝:9番は…でも、今のところでおっしゃっていただいたので。(質問9.ギャラリーcomoの個展パンフレットの文章について)

上原:ええ、で、10番にね、今お話したことをメモしたんですよ。今までで一番良い出来事なんですかって言ったら、まあ、3デニールを織ったっていうのは、1つのターニングポイントになっていますよね。それで、何が一番悪い出来事だったかっていったら、悪い出来事なしです。

小勝:なし!素晴らしいですね。みんな何かしら役に立っていくという…

上原:転んでもただでは起きないという…(笑)。 あ、そうそう!これから何をしたいと思っているかっていう時に、脱皮し続けられるモティベーションが欲しい。メモしてあります、自分で。

小勝:モティベーションですか。

上原:はい。特に沖縄で美術を学んだり、制作を続けて…(プリントを見ながら)最後の行ね。「制作を続けてる女性アーティストたちに」っていうの。そうね、朝ちょっとメモったんですけど。自分がまず立ってること。

小勝:自分が立ってること?

上原:自分が立ってる場所。自分が今いるところ、つまり日常生活を送ってるところですよね。と今の時間ですよ。現代っていう。ただ今現在っていうし、現代だし。前後もありますけどもね。そして、最後に呼吸するように手を動かし続けること。

小勝:はい。

上原:それが若いアーティストに(言いたいこと)。

川浪:自分の立っているところや時間や、自分が立っているってことをちゃんと自覚しなさい(ということ)?

上原:そう、ちゃんと自覚しなさいということ。そして日常ですよね。自分が立っている、生活している、日常(を自覚しなさいということ)ですよね。

小勝:はい。なるほど…。

上原:で、最後に呼吸するように、手を動かし続ける。

小勝:はい。いや、見事に完結。素晴らしい!

川浪:いや、私の人生の迷えるときにヒントにさせていただきます(笑)。

上原:いや、とんでもない(笑)。

小勝:これからの生きる、なんかこう指針というか、そういうこと教えていただいた気がします。

上原:いえいえ。言葉だけにならないように気をつけます。

小勝:いや、もうほとばしり出る言葉だったと思います。いや、あのこちらの準備は全然、もういい加減っていいますか。あの、惠信さんにお任せしてしまったのに…。

川浪:惠信さんがお見えになったら、もっと違う表現、ツッコミをお持ちだと思います。

小勝:でも、上原美智子さんの中からこうほとばしる、さまざまなお言葉をいただいて、本当にいい時間を過ごさせていただいて、ありがとうございました。あのお時間もそんなにでなく、ちょうど2時間ぐらいで、(ここまで濃い内容のお話をいただいて)素晴らしい!

上原:作品をご覧になりますか。そして、ちょっとサンドイッチを準備してありますので。

小勝:すみません。そんな…。

上原:ちょっと15分くらい。

小勝:一旦、(録音を)切らせていただきます。

(若干の中断の後)
上原:はい、すいません、なんか、取り留めのない話を…。

小勝:とんでもない、とんでもない。本当に素晴らしいお話で、今までのインタビューで語られなかったことまで語っていただいた気がして…

川浪:本当に素晴らしかったです。一緒に来れてよかった。

小勝:いいや。本当に、当初は金惠信さんに全部おんぶに抱っこで、私たちはただついてくるだけと思ってたんですが、あの、でも、ほんとに上原さんという素晴らしい方にお目にかかれて、直接お話伺えて、もうほんとに感動しました。ありがとうございました。

上原:ぼちぼちコツコツっていうタイプですから。

小勝:はい。それが何よりですよね。長続きするために、少しずつ。

上原:できない時はできないし、できないものはどうひっくり返ったってできないってことがわかった…ところから、やっぱりちょっと気が楽になりますよ。

小勝:うん、そうですね。

上原:できることを一生懸命やるか、って。

小勝:でも、若い頃は少しはこう気負う感じはありますよね。

上原:あります、あります。やっぱり少しずつ身を削っていって、身軽になっていくって、考え方もね。あの頭のなんかコチコチもね、ちょっとずつ削っていって、 無理しなくていいんじゃないかって。

小勝:そこを(インタビューに)入れないのはもったいなかった。

上原:あ、ぱっと思い浮かばなかったですね。朝、何か悪いことあったかなと思って、悪いこといっぱいありすぎてないのかもしれないね(笑)。

小勝:こう、ちょうどあざなえる縄のごとく、こう、悪いことといいことが、こう重なりつつひとつに、今のあの、上原さんを作ってらっしゃるみたいな。

上原:糸とか織るっていうことは、ひょっとしたら、東洋人にとってすごくなんか、哲学的な思考をもたらすかもしれない。

小勝:なるほど。

上原:あの西洋の人とはまたちょっと違うかもしれないっていうのを、アバカノヴィッチ(*)の作品見て(思った)。
(*)「アバカノヴィッチ展 : 記憶/沈黙/いのち」、セゾン美術館, 滋賀県立近代美術館, 水戸芸術館, 広島市現代美術館, 朝日新聞文化企画局編、1991年

小勝:なるほど。

上原:その時はそんなことまで思いませんよ。ただ、すごいなと思って、私は違う、としか思わないけど。

小勝:でも、そこで私は違うと思われたことがきっと重要なんだろうと…

川浪:はい。私も、大好きなアーティストで水戸芸術館に見に行きました。

上原:私セゾン(美術館)に行きましたよ。こどもたちが小さい時。

川浪:ええ、やっぱりあの迫力!なんか圧倒されました。

上原:でも、あの圧倒があるから、やっぱり対極っていうかね、もう消え入るようなもの…あれが中途半端だったらそうは思わなかったかもしれないし、また、違う出方だったかもしれないけど。やっぱりすごい、すごいですよ。よかったです、出会えて。同時代に。

小勝:あー、なるほど。

川浪:広島市現代美術館での展覧会の話で、「アートだって思った」とおっしゃっていましたね。アートという言葉が美智子さんから出される時、概念ばっかりじゃなくある種のリアリティを目指してはいてもなかなかうまくいかない、アートを立ち上げる不自由さについて考えてしまいます。まあ、私たちは元学芸員ですし自分のことを問われているような感じがして、ちょっと、はい、身に詰まされました。

上原:でも、やっぱりそうはその時思って、まあ、自分のこの時系列思考の過程の中でそう思ってても、やっぱり人って変わっていきますよね、捉え方とかで。その時にやっぱり素直にこう感じるっていうのかな。何が、なんで私はアートって感じたんだろうっていう、その自分自身の感じ方に素直でありたいと思うんですよ、理屈じゃなくて。だから、すごくそれは何か、そういう部分は持っていたいなって思いますね。うん、観念的でないってこと。

小勝:やっぱりこういう、いろんなタイプの作家が出るグループ展(「交わるいと」展)に参加されるっていうのは、そういう意味で、興味深いというか。

上原:刺激的です。

小勝:なるほどね。

上原:自分の視野を越え、思い込みとか、こだわりすぎとかを、こうほぐしてくれるっていうか、違う視点をちょっと見せられるというか。そういう意味では、山本秀夫さんや富田さんが企画したもの(*)が最初だったです。
『かたちとまなざしのゆくえ―美術と工芸をめぐって-報告集』かわさきIBM市民ギャラリー、1994年、主催:財団法人川崎市文化財団、川崎市、企画:山本秀夫、冨田康子、藤島俊会

小勝:そうですね、本当に早かったですよね。

上原:「かたちとまなざしのゆくえ」なんて。いや、何言ってんのよ(って思った)。河口龍夫さん?知らない、知らないって調べたらすごい巨匠。橋本真之さん?知らない知らない、巨匠だって。

川浪:懐かしかったです、私も。近代とはなんぞやとか制度論とかになってくると、なんか、あ、こういう時代だったなと。70年代はまた違いますけどね。80年代、90年代の美術はこういう感じ…確かに。

小勝:うん、そういう意味でこれに出品されてすごく良かったですよね。

上原:もうこれがね、要するに考える軸足をもらったところかな。

小勝:なるほどね。

上原:それまではこうかな、そうかなと思いながらも…、ここから来ているんですよ。

小勝:なるほど。もう本当に企画された方にとっても、おそらく嬉しいことだろうと思います。

上原:だから、富田さんと山本さんにはもう…。

川浪:重要な作家として、絶対に上原さんには参加してもらおうと決めていらしたと思いますよ。

上原:私はもう美術の知識とか、そういうものも自己流にしかわからないので。こんな巨匠2人に…。山本さんには最初、断っていたんですよ。「いやいやいや、普通のおばさんで機織りしているからいいんですよ」って言って(誘って来る)から、「そうですか」って。私もお調子者だから。じゃあ…、エイッてもうね、なんかまな板の鯉じゃないけど。それで、その時の鼎談*もあったんですけど、私は自分の考え方を(述べて)…。
座談会 出席者:橋本真之、上原美智子、河口龍夫、冨田康子、藤島俊会、山本秀夫、『かたちとまなざしのゆくえ―美術と工芸をめぐって-報告集』、pp.10-45

小勝:あの鼎談でももうすでに、今おっしゃられたこととほぼ同じことを(語っていらして)…

上原:変わらないね。

小勝:そこのところがすごいですよね。全くこうブレないという(笑)

上原:ハハハ。だってそれしかないし。

川浪:30年前、あけずば織を始められて(そこからブレない)。

上原:変わらないです。自分のここから発してることを言ったわけだから。脱皮しながら、変化はあるんですけど。元の命は一緒だから、変わらない。だから、あんまり変化を求めているというよりは、なりゆきですよね。だから、3デニールいったかなと思ったら、極太の植物の糸も織るし、これもなりゆきだし。こんな苧麻も織ったこともないような、長いものも織ってみたり。これもなりゆきだし。今織らなきゃと思って織ったわけだから。「アートだから織りじゃなくて、もっと糸の表現したら」って(言われたけど)、「いや、そんなの興味ありません。ファイバーアートしたいというわけじゃないので」っていう。

小勝:ええ、なるほど。

川浪:苧麻(ちょま)の話の、中国のとかインドのとか、いろんなものを織り込んでいったという話はすごいです。なんかこう情景というか、態度がすごく美しいなと思って。今流行りの多様性とかをワンワン言うよりも、本当になんか自然に、こうあるがままに織り上げられていて、美しいなと思いました。

上原:そう、水が流れるように、空気が漂っているように、みたいな。ああ、そこに「在る」っていうね。「自然(ジネン)」というのかな、あるとか、なっていくとか。

川浪:広島市現代美術館の竹口さんは私の元同僚で今も親しくしているんですが、彼も「ある」という言葉を大切にしてよく使っています。あるとは存在の「在」のことですよね?

上原:紛れもなく「在る」。

小勝:あのー、私、実は柳宗悦さんの次男の柳宗玄さん(1917-2019)っていう、あの美学者なんですけど。その先生に教えていただいたんです。お茶の水女子大時代。その柳宗玄先生がおっしゃるのも、やはり共通していると思います。あの先生は、最初ルオー(ジョルジュ・ルオー(1871-1958))の研究で有名になられて、それから、トルコのカッパドキアっていう、素晴らしい、あの奇岩の侵食された岩のある、ああいう土地を訪れ(て文明を調査す)ることをすごく熱心になさっていたんですけれども、最終的に私たちに教えてくださっていたことは、「樸」っていう言葉なんです。素朴の朴(と同じ意味)。自分の僕に右のつくりの方がなっている言葉、やはりそれが今おっしゃっていた「あるがまま」ということに繋がっているんじゃないかなっていう風に聞いていて思いました。

上原:そうなんですね。

小勝:あのお父さんのね、宗悦さんの「民藝」という思想をもちろん受け継いでらっしゃるんだろうと思うんですけれども、それをさらにこう、濾過してと言いますか、本当にあるがままのそれこそ色々な世界の国々の様々な民族が、日常雑器のようにして作っているようなもの。そういったものの素晴らしさっていうことを、やはりおっしゃっている。やっぱりなんかこう繋がっているなという気がしました。

上原:そうですよね。そのものの考え方がやっぱり根底にあって、最初にあって、そこからこう膨らませていくっていうんですかね。もちろん、西洋の美術の流れとか、ヒエラルキーとか。そういうことも、少しずつは勉強したとしても、でも、何か自分が何に惹かれているのかな。自分にとってのリアルって何かなって、それはやっぱり絶えず、問いかけているっていうか。

小勝:ありがとうございました。また、ちょっとあの追加で録音させていただきましたので、…この辺も最後に締めで入れたいなと思います。

上原:私は若い人に対してとか、子どもたち、娘達もそうですけど、あんまりこう啓蒙的っていうんですか。そういうことよりは、自分が実感したこと、ということは、私も若い時に啓蒙よりはその人の実感したことの方が自分に響いたっていう経験(をした)。要するに、この人が実感したことや自分が実際にやったことに裏打ちされたところから出てくる言葉をこう、すとっと落ちるというか。だから、子どもたちともあんまり「こうあるべきとか、こうこうした方がいいよ」って(言わない)、私の場合はこうしたけど、今、時代も変わるし、状況も変わるから当てはまらないですよね、だから私はこうしたけど、あなたはどうするの?みたいな。

川浪:娘さんたちに、そういう薫陶?、お姿を見せて来られたんですね。

上原:娘たちから私はハイジと言われてんですよ。抜けたお母さんで、「お母さん、またハイジしちゃって」(って言われています)。(笑)

川浪:ハイジが好きっておっしゃってましたね(笑)、お父さんもヤギを飼っていらしたし。

誠勇:(登場)

小勝:おー!素晴らしいお話(を伺っているところ)で!

川浪:ヤギを飼ってらしたことも(聞きました)。

誠勇:あ、こんな話もしたんですか。

川浪:おふたりの最初の暮らしのご様子とかも。はい、話してくださいとお頼みしまして。

誠勇:ちょっと恥ずかしいなー。

川浪:そしたら、ハイジがお好きだったって話を(聞きました)。

誠勇:私が無鉄砲だからね。よく付き合ってくれたよ。

小勝:ヤギを飼ってらっしゃったのが決め手でこう…、素敵な人だと!

長女の田原美野さん(父の誠勇氏から画廊沖縄を継承)も登場して、このあたりでインタビュー終了。
この後、あけずば織による上原美智子さんのこれまでの織りの作品を何点も見せていただきました。写真を一部あげておきます。

上2枚とも:あけずば織、たてわくコーラルブルー
2列目左:中央は袋織絣 右:(右から時計回りで)たてわく多色縞〜たてわくコーラルブルー〜袋織紫紺
3列目2枚とも:あけずば織、3デニール
4列目左:24メートルの苧麻、右:あけずば織 経緯絣

あけずば織、たてわくコーラルブルー

あけずば織、たてわくコーラルブルー

中央は袋織絣

(右から時計回りで)たてわく多色縞〜たてわくコーラルブルー〜袋織紫紺

あけずば織、3デニール

あけずば織、3デニール

24メートルの苧麻

あけずば織 経緯絣