喜屋武千恵  インタビュー Interview with KYAN Chie

喜屋武千恵 インタビュー
2023年11月22日
沖縄県糸満市米須 キャンプタルガニー アーティスティックファームにて
インタビュアー:金惠信、小勝禮子、川浪千鶴、池田忍
紹介文・質問事項作成:金惠信
インタビューの写真撮影:川浪千鶴、小勝禮子、池田忍
書き起こし:平良優季
編集:小勝禮子
公開日:2024年5月20日

        

喜屋武千恵 日本画家 KYAN Chie,  Artist 右:金惠信 KIM Hyeshin, interviewer

1969年沖縄県那覇市に生まれ育つ。1993年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻日本画コース卒業。95年、同大学院造形芸術研究科環境造形専攻(絵画)日本画コース修了。94年、第5回川端龍子賞展優秀賞、第46回沖展奨励賞受賞。97年、田中一村記念第1回奄美日本画大賞入選。2001年、「失われた琉球絵画の復興」のための沖縄県人材育成財団の助成を受け、中華人民共和国・魯迅美術学院に研究留学。沖縄を拠点に母性・祈り・鎮魂をテーマに、赤土、琉球藍などの沖縄の素材にこだわる日本画制作を続けている。定期的な個展の他、参加した主な企画展は、『琉球の横顔 描かれた「私」からの出発』(2022年、沖縄県立博物館・美術館)、『「復帰」後 私たちの日常はどこに帰ったのか展』(2023年、佐喜眞美術館)、『素材と表現展-膠がつなぐひととひと』(2023年、キャンプタルガニー)など。文化財の保存修復と絵画復元にも携わり、2015〜18年「琉球王国文化遺産集積・再興事業における《四季翎毛花卉図巻》研究協力者として復元工程模型制作」に参加。現在は、石垣島の旧宮良殿内(国指定重要文化財)板戸絵の調査研究を行っている。
「第9回東山魁夷記念 日経日本画大賞」展(主催・日本経済新聞社)に沖縄県出身者として《共鳴-昇華》が初めて入選した(上野の森美術館、2024年5月25日~6月4日)。

本サイトの喜屋武千恵のデータベース https://asianw-art.com/kyan-chie/


金:2023年11月22日の15時40分、喜屋武千恵さんのインタビューを始めたいと思います。

喜屋武:よろしくお願いします。

一同:よろしくお願いします。

金:改めまして、この度は科研の「アジアの女性美術家のライフコースに見る芸術実践について」における女性美術家インタビューのご依頼をご快諾いただきまして、ありがとうございました。

喜屋武:こちらこそ、ありがとうございます。

金:沖縄の女性美術家のインタビューは、上原美智子さんに続いて、お2人目です。喜屋武さんに最初インタビューのご依頼をした時に、喜屋武さんから「どうして私なのか」というのを尋ねられまして、その時、私なりに次のような答えをお送りいたしました。原則として、沖縄で生まれて、沖縄で美術教育を受けて、沖縄に滞在しながら制作していること。この2つとも、該当しなくても構いませんが、ある程度は満たしているということですね。だから、喜屋武さんは、まさにぴったり当てはまる作家さんということでお願いしました。

(キャンプタルガニーの大田さんからコーヒーを出していただく)

金:あ、ありがとうございます。すいません。コーヒーをだしてくださって…。ここの館長の大田さん…。

喜屋武:大田さんのコーヒーおいしいんですよ!ありがとうございます。

金:美しいコップ…。

大田:ここに、館長はいません。主。ぬ〜し!

金:わかりました。主の方がもっとすごい…(笑)

喜屋武:ありがとうございます。

金:2つ目は、沖縄の歴史的・文化的・地域性がテーマで、技法(テクニック)や材質が見られる制作であること。同時にその制作を今の沖縄、もちろん昔の琉球が入っているという意味ですが、国民国家、日本とアジアの文脈で位置づけることが求められる表現であること。それから、美術史の見地からは上原美智子さんは工芸・染織、喜屋武千恵さんは日本画ですが、この2つのジャンルは、私が言うまでもなく日本およびアジアの近代美術において最も重要な項目ですね。 それを沖縄の女性アーティストの制作で探れるアーティストとして、喜屋武千恵さんにぜひお願いすることになりました。
今回、この「素材と表現〜膠がつなぐ ひととひと〜」という企画展が開催されているキャンプタルガニーでインタビューできることは本当にタイムリーで、場所的にも非常に意義深いことだと思いました。それでは、早速質問を差し上げたいと思います。

喜屋武:はい、ありがとうございます。

金:皆さん、途中からどうぞ(質問を)挟んでください。

小勝:じゃあ、一緒に同席させていただいております小勝禮子です。はじめまして。よろしくお願いします。

川浪:川浪千鶴です。よろしくお願いします。

喜屋武:よろしくお願いします。

池田:池田忍*です。よろしくどうぞお願いします。

*池田忍さん(美術史家、千葉大学名誉教授)は喜屋武千恵さんの作品を以前からよくご覧になっていて、今回もちょうど展示を見に来られたので、インタビューに同席していただいた。

喜屋武:よろしくお願いします。

金:私は沖縄在住でインタビュアーを務めます、金惠信です。よろしくお願いします。
まず、生い立ちについてです。那覇市でお生まれになっていますね。ご両親とか、ご兄弟とか、姉妹とか、ご家族について、簡単にお聞かせください。

喜屋武:はい。

金:それから、続けて美術との関わりで、ご家族や親族の中で美術またはその他の芸術、そういう表現に関わりを持つ方はいらしたか。もし、いらっしゃらなくても、育てられた家庭環境の中で影響を受けたとか、そういう話も併せてお願いします。

喜屋武:はい。那覇市沖縄生まれで、両親とも沖縄です。両親は、戦後とても貧しかったそうで、どちらとも小学校を出てすぐに、働かなければならなかったそうです。なので、私の身の回りには芸術をしていたとか、そういう人はいなかったです。
特に母が、私にとってはすごく影響を与えている人物だなと思います。改めてこの質問を(いただいて)家で考えてきた時に…。
沖縄は、美術館がまずなかったですし、私の場合は、美術や絵画作品に触れるっていう…ましてや日本画に触れるってことはほとんどなかったですね。(そんな環境の中で)、育ったんですけれども。
 母は、小学校卒業後、住み込みの女中として働き、その後大阪で10年ほど働き、沖縄に戻ってくるのですが、自分自身がやりたいことをできなかったから、子供たちには(やりたいことをさせたい)っていう思いがあったようです。(絵を見に行ったと言えば)私が小さい頃は山形屋というデパートがあり、時々イベントが開催されました。そこで、ちぎり絵で有名な山下清さんの巡回展などがあり、(絵が好きな私のために)連れていってくれました。

小勝:あ〜はいはい。

喜屋武:で、山下清さんが来たときとか…あとは、スケッチ大会とかに連れてってくれたりして。なんか、そういう、土壌っていうのかな、育んでくれた。だから、山下清さん見た時もすごい感動して。なんか、あの、小学校の日記とかにもどれだけすごかったか、感動したかっていうのをずらずら書いて。夏休みには、海や植物園などへ、スケッチに出かけました。バスに乗って、重い画板や絵の具を持って…。

金:あ、そうなんですね。あのデパートって、今はないですか。山形屋。

喜屋武:山形屋はですね、今は、閉まって…。えっと、別の何かになっています。国際通りに。

金:国際通りにあったんですね!

喜屋武:唯一あったんです。

小勝:地元のデパート?

喜屋武:そうです。

金:そうなんですね…。やっぱり家庭環境の中で、色々そういう…

小勝:あと、そのご兄弟姉妹というのは、いかがですか。

喜屋武:えっと3姉妹で、私は長女です。

小勝:で、他の方々は特に芸術に関わりは…?

喜屋武:そうですね。三女がやっぱり手先が器用だったり…。私の祖父は会ったことないんですけれども庭師だったそうで。あとは、三線がすごいうまかったそうです。家系的に、手先が器用だったのか。一時期、三女が染織の道を目指したのですが…パティシエになりました。

川浪:妹さんが?

喜屋武:はい。ですが今は、障害者施設で働いています。

金:あ、そうなんですね。やっぱり、琉球…沖縄料理?

喜屋武:いやいや、違います。次女は学校給食の調理をしています。

金:あー、はい。わかりました。

川浪:お母様は、三姉妹全員を山下清展とか連れていってくださったんですか。

喜屋武:はい。

金:どれぐらいの年の差があるんですか。

喜屋武:えっと…次女とは4歳違いで、末っ子とは7つ違い。

金:一番末っ子とは割と離れていらっしゃるんですね。

喜屋武:そうですね。なので、絵の宿題など、よく手伝わされていました。(笑)

金:妹さんたちはみんな今でも沖縄にいらっしゃるんですか?

喜屋武:はい、います。

金:あ、そうなんですね。幼い時からお話ししてくださいましたが、では、高校は、首里高ですか?

喜屋武: 豊見城高校です。

金:すいません。首里高はお嬢さん(が通っていたん)ですよね。

喜屋武:はい。

金:その時は助産師をご志望だったそうですね。何かきっかけがあったんですか。そこから美術への道に、芸大に進みたいと思ったのはいつ頃からで、きっかけはなんでしょうかね。

喜屋武:それがですね…。あまり覚えてないんです(笑)でも、子供の頃からずっと絵は好きで、描いたりしてたんですが…。ものごころつく頃から、命が生まれてくる不思議や、そういうことにすごく興味があって…。なんだろうな。変な子どもなんですけど。

金:命という概念についてですか?例えば、なんか動物を飼っているからとか。そうじゃなくて?

喜屋武:そうではなく、動物は好きで、いろいろ飼っていましたが、子どもたちが生まれてくるドキュメンタリー番組など、テレビで見たのかもしれないですね。生まれてくる…この不思議な生命が生まれてくるお手伝いをする人になりたいと、ずっと思っていました。数学は苦手だったんですが理数科に進み、ずっと高3まで、そこ(助産師)を目指していました。

金:高3まで。

喜屋武:そう、高3まで。で、まあ部活(バスケットボール)に夢中でしたし。部活も引退して、いよいよ受験!という時期に、学校帰りに川沿いを歩いていたら、「うん。なんか私、絵を描きたい!」って、急に思ったんですよ(笑)。それで、進路変更したので先生方もみんなびっくり。周りの友達も「え。今頃?」って感じだったんですけど。高校の選択科目も美術取らなかったし。音楽でしたので。

川浪:受験は大丈夫でした?

喜屋武:あ、なので、やはりその年は見事に落ちました(笑)。急な進路変更に、周りが心配する中で、母だけは「本気なら、自分のやりたい道に進みなさい。」と、応援してくれました。その頃は、芸大美大の予備校がまだ無かったので、私塾を探して、真喜志勉先生の「ペントハウス」を見つけて…。

金:ああ〜私塾!

喜屋武:そう、私塾!で、そこに通うようになってデッサンして。大変刺激を受けました!ですが、高3から始めたので、もちろん一浪して。

金:うん。

喜屋武:っていう感じです。

金:あ、そうなんでね。で、その時は、もう絵画と決めて。そうですね。じゃあ、それでめでたく沖芸(沖縄県立芸術大学)に入られたわけですね。

喜屋武:はい。

金:学生生活はいかがでしたか。まあ最初は絵画に入っても、西洋画か日本画か決めなくてもよかったんですか。

喜屋武:そうそう。私たち4期ぐらいまでは、1年間は、洋画や、デッサン、日本画などを体験して、そのあと進路を選択しました。でも、私は浪人の時にちょうど田中一村が…。

金:はいはい。

喜屋武:あの奄美でNHKの記者が発見して…

金:そのときなんですね。田中一村の発見!

喜屋武:そう!田中一村ブームで。まだ今の那覇市民ギャラリー…パレットではなくて。向かいのビルにある時の小っちゃな那覇市民ギャラリーの時に(田中一村展が)巡回展で来たんですよ。

金:あ、そうなんですね。

喜屋武:初めて日本画を見ました。日本画っていうのも、言葉も知らない。

金:何年ですかね。

喜屋武:えっと…浪人時代…確か1988年。

金:田中一村のブームで、那覇市民ギャラリーに来た時?

喜屋武:ものすごく衝撃を受けました!絵を見て涙が出たのは初めてだったんです。一村の生い立ちとか、前情報はなく、ただ作品だけ見て「うわー」って…。なんなんですかね。もう、すごい揺さぶられたんです。で毎日毎日、通ったんですよ。この展示期間中。

金:毎日?

喜屋武:毎日。それで、一村さんを調べていくと「あ、これが日本画なんだ」と。「じゃあもう日本画コースに行くぞ!」って、決めました。

金:うん。

喜屋武:1年生の時から「私は日本画をやる。ここで日本画を学ぶ!」っていう。

金:田中一村がきっかけだったんですね。

喜屋武:きっかけです。

金:あの時は喜屋武さんは何期生で…?

喜屋武:4期になります。

金:あー、4期なんですね。

喜屋武:音楽学部がまだできていない。大学院もまだない頃です。

金:(担当は)平山先生ですか。

喜屋武:平山先生です。平山英樹先生と西村立子先生です。

金:あー、西村先生。お名前だけ伺っています。

喜屋武:で、香川亮先生が助手のころ…

金:あ、そうなんですか!香川先生、そんなに昔から…

喜屋武:はい。

金:あの時は(学生の)男女比とかどうだったんですか。

喜屋武:彫刻は男子が多かった。絵画は…学年によって異なりますが、私の学年(絵画科)は女子が7人で男子が4人。

金:で、(男性は)3割ぐらい?

喜屋武:はい。

金:キャンパス生活とか日本画コースに進んでとか、ちょっと思い出とか、記憶に残ることを語ってください。

喜屋武:開学してからまだ4年目ということもあって、学内は自由で活気に溢れていましたし、先生方も学生も、伸び伸びしていました。私の学年では、日本画を選択したのは私一人でしたので、先輩方にも可愛がっていただきました。とても楽しかったです。あとは(学生が)興味がある外部の先生方を(沖縄芸大に)呼んでくださいました。

金:呼んでくださったんですね。

喜屋武:はい。沖縄は地理的に離れていますし、今のようにSNSも発達していなかったので、情報もあまり入って来ませんでした。なので、「県外(の先生)で誰、呼びたい?」と学生の意見も聞いてくださいました。

金:沖芸は県外から集中講義で呼ぶ先生の予算が潤沢なんですよね。

喜屋武:すごい贅沢でした。はい。工藤甲人*先生とか、平山英樹先生の恩師ですから。また、畠中光享*先生!
油画では野見山暁治*先生!挙げるときりがないですが、とても素晴らしい方々ばかりで、ありがたかったです。で、(学部)2年生の時かな「喜屋武さん、誰、呼びたい?」って平山先生が聞いてくださって。
その頃読んでいた日本画の技法書に、内田あぐり*先生の作品が紹介されていて、その作品や創作に取り組む姿勢に惹かれていまして「あぐり先生呼んでください!」って言ったら、呼んでくださって!
*工藤甲人(くどう こうじん)(1915-2011)日本画家、創画会会員、東京藝術大学名誉教授
*畠中光享(はたなか こうきょう)(1947- )日本画家 インド、仏教を題材にする。
*野見山暁治(のみやま ぎょうじ)(1920-2023)洋画家、文化勲章、文化功労者、東京藝術大学名誉教授
*内田あぐり(1949- ) 日本画家 https://asianw-art.com/uchida-aguri/
     https://asianw-art.com/interview/uchida-aguri/

小勝:へー!!

金:そうなんですよ!1人だけのためにも呼んでくれるんですよ。

喜屋武:そうなんです!

川浪:学生に希望を聞いてくださるんですか!

金:予算が許す限りなんでしょうけど。それが優先。

川浪:先生たちが学生に「どういう先生に学びたいか?」って。

喜屋武:そう!すごく刺激になります。

金:そうすると、県外の大物の先生も喜んで沖縄なら駆けつけてくれるという感じで。

喜屋武:今はどうかはわからないんですけど。

金:今も割とそのへん(予算)は潤沢なほうです。芸術学も…。

喜屋武:それで…すごく。はい、ありがたかったです。

金:うん。でも学生はそのありがたさをわかってくれているのか、わかっていないのかという。だけど、多分その時から(喜屋武さんはありがたみを)わかってくださって…。いや、でも実技の学生たちはもっとわかってくれると思うんですよね。

小勝:やっぱり身になっていると思いますよ。

喜屋武:そうですよね。

川浪:内田先生とはその時が出会いなんですね。

喜屋武:もうその時は…ああ〜…もう(自分の)作品もね…もう全然ダメだったので。内田先生も(その時のことを)全く覚えてらっしゃらなかったんですけど(笑)。2022年に佐喜眞美術館で開催されたあぐり先生の個展「在 Existence」の際に、30年ぶりに再会しました。内田先生が個展前の下見のため、佐喜眞美術館を訪れた際に、開催中だった企画展に私も参加していて。

金:「私たちは」、あ、これですね。(「復帰」後 私たちの日常はどこに帰ったのか展、佐喜眞美術館、2022年6月17日-9月11日)

喜屋武:その時に多分、私の作品を見てくださって。

金:『「復帰」後 私たちの日常はどこに帰ったのか展』、これです。

川浪:シンポジウムされた時の?

喜屋武:はい、シンポジウムもしました。私は《共鳴》と《白澤2019》、《祈りの地》(斎場御嶽(せーふぁうたき)をイメージした作品)の3点を出品しました。それがご縁で、あぐり先生の個展の時に、阪田清子さんと私をトークの相手に指名してくださいました。

金:あ、そうだったんですね。そのときに思い出してくださって。先生と昔からの縁が繋がっているんですね。わかりました。
はい。えっと…その時も卒展とか、まだ大学の中(での展示)だったんですよね。資料館に…

喜屋武:体育館(で展示)です。資料館もなかったんです。

金:あ…体育館。

喜屋武:体育館でした。

金:そうですね…。卒展(卒業制作展)の作品(挿図1)は、今、画像は見られないんですか。

 

 

 

 

 

 

 

挿図1《氣塊(きこん)》1993年、289.0×181.8㎝ 麻紙、膠、顔料、墨、金銀箔、金銀泥

 

喜屋武:卒制の作品、ファイルしていたんですけど…すいません。(後で見つけて下さった写真を上に掲載)

金:資料館の展示のときは…何かで(作品が)出た時ありますか。

喜屋武:あります。

金:私が来てから何かで拝見しているんですかね…。

喜屋武:いえ、作品は…金先生がいらっしゃる前だったんじゃないかなと。

金:根間智子さんの卒展 (拝見しました)。作品はその時は日本画だったんですよね、根間さん。

喜屋武:そうなんです。

金:すごくいい作品でした。わかりました。じゃあ卒業後、留学の話をちょっと伺いたいんですが。間が開くんですかね。魯迅美術学院の留学までは、その時「失われた琉球絵画の復興」という沖縄県人材育成財団の助成で留学されたんですよね。では、留学したいと思った理由とか、学んだこととか、卒業後も含めて繋げてお話ください。

喜屋武:はい、そうですね。大学院に進学しました。私は大学院の1期生なんです。その頃、初めて蘇鉄を描くんですけど。その作品が、川端龍子賞展で優秀賞をいただきました(挿図2)。それから蘇鉄はずっと描き続けています。私にとって蘇鉄は特別な存在です。

 

 

 

 

 

 

挿図2 《環(かん)》1994年、麻紙、顔料、金銀箔、金銀泥、第5回川端龍子賞 受賞作品 和歌山市立博物館蔵

 

金:1994年ですね。川端龍子賞展で優秀賞ですね。その年はまた沖展でも奨励賞。

喜屋武:はい。そうですね。大学院時代は色々自分自身と向き合いながら制作して、個展やグループ展で作品を発表していましたが…。うーん…、沖縄っていう土地では…。なかなか作品を見てもらえる機会が少なくて。

金:はい。

喜屋武:平山先生が創画会に所属されていましたので、出品すれば多くの人に見てもらえるかなと思って挑戦しましたが、あの…創画は1回も通りませんでした。(笑)。

金:そうなんですね。

小勝:えー!(驚く)

喜屋武:かなり出したんですけど。自信喪失もあり…。で、大学院修了後は、もちろん自分自身、創作をここ(沖縄)を拠点にやっていきたいと思っていて。で、仕事をしながら…仕事はその時は高校の非常勤と保育園や予備校で少しバイトをしながら創作活動を一生懸命続けていました。ですが、なかなかやっぱり、こう…繋いでいけない。なんて言うんですか…発表する場を作ることができない。

金:はい、はい。

喜屋武:お金を貯めて沖縄で個展をしても…一部の人には見てもらえるけれども…。どんどん自信喪失していくし。なんだろうな。すごい閉塞感をかんじていました。一生懸命、制作しても、制作しても、発表しても、発表しても…なんていうんですか。どうにもならないというか…。で、大学を出たら、先生たちにも見てもらう機会もなくなるじゃないですか。孤独の中で、自分はいったい何がしたいのか、自分自身の創作を進めていく上で、迷ってしまって、全く描けなくなってしまったんですね。
 アトリエを借りて「よし、やるぞ!」って張り切っていましたが、1年、2年と過ぎていくと、アトリエの家賃払ったり…。バイト(だけでは)…やっぱり生活が厳しいですよね。絵も売れないし。で、どうしていいかわからない。何描いていいのかもわからないって、悶々としていた時に、たまたま、ふらっと入った博物館で、勇気をもらったんです。

金:首里?

喜屋武:そうです、そうです。博物館。

金:富久屋の前…。今空き地になっている。

喜屋武:はい、戦後直ぐに建てられた古い博物館で、薄暗くて、レトロな感じが好きだったのですが。そこに、寂しい感じですーっとこう、お軸が下がっていたのが自了の《白澤之図》(挿図3)だったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

挿図3 自了(城間清豊1614‐1644)《白澤之図》紙本彩色 一幅 80.0×35.6㎝ 沖縄美ら島財団蔵 

 

金:はい。

喜屋武:もう状態が(ひどくて)。修復する予算など厳しかったかもしれませんね。でも見た時にすごく…なんだろうなあ…。運命の出会いって感じです。それが自身のルーツを調べるきっかけとなり「かつてここは琉球王国で、様々な国との交流の中、豊かな芸術文化が花開いていた。素晴らしい作家がいた…先輩がいた!」っていう勇気と誇りをいただきました。自了は(生まれつき)耳が聞こえず、教育も受けることが出来なかった中で、自分自身でこう作品を描いていって。それで、絵がすごいってことで王様の耳に入って、首里城に召し抱えられて、いろんな作品を模写しながら(独学で)学んで。それで、自ら悟る、了解するってことで、王様から「自了」っていう名前を頂いたっていう話(があります)。

池田:すごく若くして亡くなっているんですね。

喜屋武:はい、30歳で亡くなっているんですけど。

池田:もう伝説の…

喜屋武:もう伝説の自了!この出会いがきっかけで、「琉球絵画」(当時は琉球絵画という言葉は無かったのですが)について、筆法など技法研究をしたくて、助成金に挑戦して中国へ短期留学しました。

金:それで、留学につながったんですね。

喜屋武:はい。

金:なかなかいい助成金だったんですね。

喜屋武:はい、そうですね。返さなくていいし。

金:あ、返さなくてもいい(笑)

喜屋武:はい。感謝です。

川浪:(当時は)「琉球絵画」という言葉は、使われてなかった?

喜屋武:そうですね。

金:あとで、その琉球絵画の復元とか、そっちの方で話がもうちょっと詳しく(伺います)…。でも多分この留学のことに繋がるんですよね。あの93年の沖芸の卒業作品(挿図1)は買い上げ?

喜屋武:あ、そうですね。今(手元に)資料がないんですけど…。

 

 

 

 

挿図4.《赫土の国》1997年、麻紙、キャンバス、顔料、金銀箔、金銀泥、田中一村記念 第1回奄美日本画大賞入選作品 作家蔵

 

金:その翌年には川端龍子賞で、そのあと97年は田中一村記念 第1回奄美日本画大賞で入選されて(挿図4)。こういうのを見ると、次から次へとこう…受賞を重ねられながら順調だったように、これ(資料)からは見えるんですけどね。

喜屋武:「行くぞー!」って思っていましたが、その時の助手の香川先生に「川端龍子とかで賞取ると、画廊とかからいっぱい連絡来たでしょ」みたいな。「なんか話来たでしょ。個展とか」って言われて。「や、全然来ないです」って。やっぱり(沖縄は)僻地だからですかね。あ、今は違いますよ。だいぶ変わったと思います。

金:変わったと思います。

池田:それでも、あれですよね。私…あの、(沖縄から本州に)絵を送っていただくのに、輸送費の高さ!公募展に出すような大きな作品は、お金もかかるし、輸送業者さんを探すのも大変でしょうから、若い人にとってはどれだけ負担か…

川浪:ハンデありますよね。

池田:聞いてはいましたが、実際に金額や輸送方法、時期も難しいなど、複数の業者さんに問い合わせてみて、びっくりしました。

喜屋武:そうですね。今もやっぱりそうですよね。食費削ってみんな出品するっていう部分はあると思います。まあ、それは沖縄に限らず。あの…都心から離れている人たちは、皆さん大変だと思うんですけど。

金:そうですね。

小勝:田中一村記念 第1回奄美日本画大賞っていうのは、奄美でやっているんですか。

喜屋武:そうなんです。でも、1回で終わっちゃったんですよ。

小勝:あらま〜!

金:あ!1回で終わったんですか。

喜屋武:第1回で終わっちゃったんですけど。(別の形で継続しています)

川浪:そうなんですか。田中一村との出会いがあって…第1回で終わって…。

喜屋武:そうです。

小勝:(審査員が)松尾敏男*、…土谷禮一*さんとか。
*松尾敏男(まつお としお)(1926-2016)日本画家、文化勲章、文化功労者、日本芸術院会員、日本美術院理事長。
*土屋禮一(つちや れいいち)(1946- )日本画家、日本芸術院会員、日展副理事長。

喜屋武:はい。

川浪:錚々たるメンバー。

喜屋武:そうです!あとは福井爽人*先生、沖縄芸大にも非常勤で来てくださったこともあって。大好きな「一村だ~!」とおもって、副賞が、奄美にご招待でしたし。
*福井爽人(ふくい さわと)(1937- )日本画家、日本美術院理事。

金:通ったらご招待!「一村だ!」と思って。

喜屋武:「一村だ!これはもう絶対奄美に行きたい!」って。奄美の一村の絵を描いていた家(アトリエ兼自宅)とか、そこもツアーで回れると。

金:それはまた贅沢な。

喜屋武:こんなめったに会えない偉い(審査員の)先生方にも講評していただける!

小勝:(図録をみながら)この頁の作品ですね。

喜屋武:そうです。ありがたいことに入選して。で、奄美にも行って、一村の家を見たり…すごく刺激を受けて…です(笑)

金:そうだったんですね。なかなか素晴らしい。

喜屋武:でも、その後はもう…ピタッと。あの、出せども出せども(入選しない)。

金:ああ、確かにその後ちょっと間が空く感じなんですね。あと、留学…

喜屋武:あー、そうです。はい、留学。

金:留学は2001年になりますね。

喜屋武:はい。

金:魯迅美術学院は、私もちょっと検索してみたんですけれども。どういうところでしたか。その留学、さっきの学校の話も交えて。留学生活について。

喜屋武:中国行きたいって言ってもツテもアテも何もないので。まずは中国語をしっかり勉強しようと思って。で、那覇の語学学校へ行ったら、孫薇(そんび)先生(という)中国語の先生が(いらした)。孫先生は当時沖縄県公文書館で中琉関係の資料編纂や翻訳に携わっていた先生で、すごく刺激を受けました。ちょうど孫先生が中国の遼寧省のご出身で、その伝手でグスク研究をされている名嘉正八郎*先生を紹介していただいて。名嘉先生は魯迅美術学院の客員教授だったこともあり、それで魯迅美術学院の中国画系を調べたら工筆画…。
*名嘉正八郎(なか しょうはちろう)(1933- )沖縄史学者。工芸指導所所長、沖縄県立博物館副館長、沖縄県立図書館にて歴代法案編集事業主任を務め、94年退職。97-98年中国・魯迅美術学院教授。

金:工筆画!

喜屋武:工筆画。はい。琉球もこの(工筆画の)影響を受けているのですが…。この工筆画を教えることができる先生が、留学経験はないけれども日本語が喋れて、加山又造*にちょっと師事したことがある先生で。日本語もペラペラで。だから「そこ(魯迅美術学院)がいいんじゃないか」っていうことで(アドバイスを受けました)。
*加山又造(かやま またぞう)(1927-2004)日本画家、文化勲章、文化功労者、東京藝術大学名誉教授。

金:え〜、そうだったんですね。

喜屋武:そこでこの工筆画の筆法を学びました。琉球絵画に縁があるってどういう人を模写したらいいかっていう…。
一応、この『おもろそうし』*に、さふろく(三郎)という絵師が出てくるんですけど。「この絵師の屏風がとても素晴らしい」と。で、それは神女にあてて、神女のために描かれた屏風で。牛や馬がこう駆けていて、まるで生きてるように。で「蜻蛉(とんぼ)や蝶々がもうすごく飛んでいる美しい屏風だった」っていう(記述が)、この『おもろそうし』に出てくるんですよ。このさふろく(三郎)っていう絵師が。そういう屏風をもう1度、なんか「自分自身がこう描いてみたい」っていう思いがあったので、蝶の絵だったり、牛や馬だったりを模写してきたと(いうことです)。
*『おもろそうし』琉球王国尚清王(第二尚氏第4代)時代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌集。

金:あ、そうだったね。

喜屋武:で、李公麟*がちょうどまた根津美術館で(展示が)されているんですけど。来週見に行くんですけど。そう、その李公麟の馬も模写しました。線がとても美しい!ひたすら工筆の筆法の模写を行い、学びました。画の勉強をするのと、あとは情報収集です。
*李公麟(り こうりん)(1049-1106)北宋の文人・画家・古物収集家。

金:だから魯迅美術学院というところが、その…助成をもらって、そこから指定されて行ったわけではなくて、自分で探して…

喜屋武:自分で探して。

金:留学できるような、その費用がもらえる助成だったんですか。

喜屋武:えっと、この助成金はその人の研究したいところに行けるっていうものだったので。例えば、他の人はネイティブ・アメリカンのバスケット(の調査で)…小川京子さんとかがいらっしゃったんですけど。国も選べて。で、大学に行きたい人は大学(に行く)。

金:すごい贅沢。聞いたことない…。

喜屋武:今はないと思います。多分何年かで(終わって)。

池田:いろんな財団の助成事業がだんだん縮小になっていって…残念。

金:あの魯迅美術学院…ちょっとネットに入ってみたら、ものすごく大きい!

喜屋武:そうです、そうです。はい。

金:すごく贅沢でキャンパスもものすごく美しい!

喜屋武:はい。そうでした。

金:で、期間はどれくらい。

喜屋武:えっとね、短くて3ヶ月だったんですが。その間に北京の方に行って、また、あのちょっと北京の故宮とか(行ったり)。あと、資料収集を行いました。あとは、その時にまた旅順とか…日本軍が…そういうところも(行ったり)。ちょうど、あの孫先生の紹介で三木健*さんっていって、あのジャーナリストの。三木さんがちょうど旅順など、中国大陸で日本軍が(負の遺産も含めて)遺したことを調べていらっしゃったんで、そこも全部一緒に連れてってもらえたんですよ。それも幸せです。
*三木健(1940- )琉球新報社編集局長、論説副委員長、専務取締役、副社長を経て2006年退職。沖縄・ニューカレドニア友好協会顧問、世界のウチナーンチュセンター設置支援委員会共同代表。

金:あー、それは…じゃあ、すごく濃い3ヶ月ですね。

喜屋武:3ヶ月ちょっとですね。

小勝:言葉は?言葉はどうされたんですか。

喜屋武:言葉は…ま…一生懸命頑張って行ったんですが、カタコト(笑)

小勝:まあ、急にはね…。

喜屋武:一応この先生がある程度話せる方だったので。

小勝:日本語が。

喜屋武:はい。この筆法の仕方とかは日本語も交えながら教えていただいて。ひたすら模写と資料収集して帰ってきたっていう感じですね。

金:でもやっぱりこの留学というのは、あの、先ほど卒業した後に色々制作の悩みもおありで、とおっしゃったんですけど。留学はその後の作家活動とか、あと収入もちょっと得ながらそういうところに何か転機にはなったんですか。自信を持つとか。
留学の後の話…その後ご結婚とかすぐ続くんですかね。そういうお話(をお聞きしたい)。

喜屋武:そうですね。留学から帰ってきて…で、そういうアイデンティティみたいなものも調べたり。ルーツを紐解きながら自分自身の表現したいものがだんだん見えてきた時期で。ひたすら描き続ける。個展を中心に活動していました。帰ってきた後に、また三木健さん(にお会いしたりして)。三木さんが八重山の出身の方で。

金:はい。

喜屋武:それで、八重山の石垣島に宮良殿内*という国指定の重要文化財の建物があってそこに絵があると。板絵が。「板絵があるんだけどあんたどうにかできないね」っていう話を帰ってきてすぐぐらいですね。(三木さんに)言われて。石垣島に自分も興味があったので自費で調べに行って見たら、すごくやっぱり面白い絵があって。で、その時は何も…なんて言うんですかね。もうこの復元の技術もないじゃないですか。で、見て「すごい」と思って。まあボロボロだし、どうにかしたいとは思うけれども、どうしていいのかわからない。で、「まあ、誰かやるんじゃないかな」(って思っていました)。
*宮良殿内(みやらどぅんち)  八重山の行政官 宮良親雲上当演(みやらぺーちんとうえん)が、士族屋敷に模して1819年に建造。その後、琉球王府が身分不相応として5度にわたり取り壊しを命じた。当主は屈せずにいたが、1874年にやむなく茅葺きに改造、1899年に再び瓦葺きに復元された。王府時代の士族屋敷を保存した県内でも唯一の建物として、国の重要文化財に指定。枯山水の日本庭園は国の名勝に指定。石垣市観光交流協会HP  https://yaeyama.or.jp/%E5%AE%AE%E8%89%AF%E6%AE%BF%E5%86%85%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%82%84%E3%82%89%E3%81%A9%E3%81%85%E3%82%93%E3%81%A1/

金:その時から縁があったんですね。宮良殿内の板戸絵。

喜屋武:そうです、そうです。

金:そっか…今、科研費でやっていらっしゃる…。

喜屋武:今、科研費で研究調査していますが。その時はもうどうしていいかわからなかったので、八重山研究会で調査報告だけさせていただきました。それで、本当は魯迅美術学院にまた戻るつもりだったんです。

金:あ、そうだったんですね。

喜屋武:はい。たった3ヶ月じゃ(足りないって思って)…戻って敦煌行って、模写もして、あと1、2年もっと勉強しようって思っていたら、あのちょうどお腹に長女が…

金:そっかそっか。すでに(結婚されていた?)。

喜屋武:あ、そうですね。結婚した後ですね。

金:あ〜、そうなんですね。

小勝:結婚はいつ、何年にですか?

喜屋武:結婚いつだったかな〜(笑)

小勝:(笑)

喜屋武:2001年…

金:あ、ちょうど魯迅美術学院から…

喜屋武:帰ってきて…すぐだったかな。どうだったかな。ちょっとよく覚えてないんですけど(笑)

池田:沖芸(沖縄県立芸術大学)のころの同級生でしたよね。

金:そうでしたよね。

喜屋武:はい。年齢は2つ上です。(夫は)北海道出身です。

金:沖芸で出会って…。

喜屋武:彼は油絵科で。

川浪:油なんですね。

金:あ、2つ上だとやっぱり同じ時期に学生生活?

喜屋武:あの、3浪かな?彼は。私は1浪なんですけど。で、同期だったと。

小勝:なるほど。

金:ではその時からの付き合い?

喜屋武:あ、そうですね。

金:あ〜そうなんですね。あ、じゃあ敦煌とかも回って、さらに魯迅美術学院に戻るというのがやっぱり…

喜屋武:あ、そうそう。戻るつもりだったんですけど。あのー…ありがたいことに出産。

金:うん、そうですね〜。そろそろ…結婚、パートナーシップ、ご家庭のお子さんについて(お聞きしたい)…

小勝:どうぞ(お話を)続けていただいて。

金:それで、お連れ合いの黄金さんとの結婚は生活に…まあ、月並みの質問ですけど、どのような影響を及ぼしたか。また、美術との関わりに与えた影響とか、生まれた子どもの存在と美術との関わりについても聞かせてください。あと、家事と子育てと制作との両立についても。で、上のお嬢さんの蒼生(あおい)さん?

喜屋武:はい。蒼生。

金:蒼生さんはね、首里高で確か美大に進学されていますよね。首里高の時にかりゆしコンテストで最優秀賞で新聞に載ってましたよね。すごく優秀な、首里高の染織(科に在籍)?

喜屋武:はい。

金:あそこの染織はすごく有名なんですよ。沖芸より設備がいいんじゃないかなと思われるぐらいすごいところなんです。キャンパスもすごくて。うちにもどんどん進学してくる。

喜屋武:はい、そうですね。

金:じゃあ、その辺…ご結婚の後から話をお願いします。

喜屋武:やっぱり…あの相棒ですね。創作についても色々お互い話せるっていうのはすごく…なんていうのかな。幸せだったと思います。で、彼が油絵だったので。あの多浪していますし、色々知っていたので。私はやっぱりもうほとんど無知だったので。油といったらゴーギャンとかゴッホぐらいしか知らないようなものだったので。なんか色々教えてもらえたのは、すごく刺激を受けた部分はあります。なので、日本画科にいたけれども、ま、沖縄芸大自体が一学年、油と一緒で。10名程度なので。油画の学生ともすごく交流があったので「あ、それ面白いね」って言って、ちょっと作品に取り入れたり。学生の時代からズタ袋とかそういうのを貼り付けたりとか、板を貼ったりとか。で、ちょっとミクストメディアやってみたりとかって。やっぱり、そういう交流があったのはありがたかったと思います。

川浪:いいですね。やっぱり始まりの頃の大学の雰囲気がよくわかります。

喜屋武:はい。先生たちも油絵と(日本画)全く関係なく(交流していた)。で、ルイ・フランセン*先生っていって、あの忠犬ハチ公の…あの陶壁とか陶板とか作られている先生もいらっしゃって。すごく、やっぱりルイ先生からも刺激を受けました。あのステンドグラスだったり…。だから科を超えて、夫もそうですけど…すごくいろんなことに触れることで、自由に発想できたっていう部分があって。で、結婚してからも、作品描いていたら「あ、どう思う」って聞いたら、もうあのズバズバと色々言ってくれるので。そういう部分ではとてもあの…ありがたかったし、お互いにまた制作する上で、なんて言うのかな…なんか自由に制作できた。もう制限なく。はい、理解があるので。
*ルイ・フランセン(1928-2010)ベルギー出身。初めは宣教師として来日、1966年再来日。陶板レリーフ壁画やステンドグラスを制作。現代壁画研究所(現 クレアーレ工房)所長。

金:また、やっぱり(夫の)黄金(忠博)さんは…あの美術学院も経営して…すごく有名な、那覇では。どうぞ、その話も。あ、そこでも今、教えていらっしゃいますよね。

喜屋武:はい。

金:那覇造形…

喜屋武:那覇造形美術学院といって。

川浪:美術大学受験生向けの?

喜屋武:予備校なんですけど…。

金:一番有名。

小勝:それを夫さんが経営していらっしゃる?

金:そうなんです。立派な学校ですよ。

喜屋武:いやいや。

川浪:でも、それもご自身で学校を立ち上げて?

喜屋武:いやいや。全然、経緯があって。あの私は大学院の頃から、今の那覇造形美術学院の前身だった那覇美術学院で講師のバイトをしていました。以前は別の方がオーナーだったのですが。で、その頃夫は、大学を卒業した後、仕事がなくて。ビデオショップとかで働きながら絵を描いていたんですが。ビデオショップで万引きの疑いをかけられて(笑)
「俺じゃない!」って。

小勝:え!?誰が?彼が?

喜屋武:あ、そう。見かけも金髪でなんか…(笑)ギターやってて…(笑)

金:コンサートもなさっているんですよ!

小勝:へ〜!

喜屋武:見かけで(疑われて)…汚いので(笑)

池田:疑われたんですね(笑)

金:汚くないですよ!ものすごく素敵!

喜屋武:疑われて「俺じゃない!」ってなって。まあ結局、辞めさせられて。

池田:かわいそう…。

喜屋武:辞めさせられたんですよ。だからもう仕事がないので、当時の那覇美術学院で、油画の同級生がちょうど絵画コースの主任になっていたので、有り難いことに、上司に面接してもらえるように頼んでくれたんです!

金:「造形」(その時は、名前に)入ってなかったかもですね。(現在の「那覇造形美術学院」という名称は、黄金氏たちが経営を引き継ぐ際に、前身の「那覇美術学院」に「造形」を加えて、新しく変更したもの)

喜屋武:また、その部長さんがとってもいい方で。そこで電話対応から、一から鍛えて下さいました。その後、色々経営難などでオーナーが変わり…バブルも弾けて。この予備校自体が潰れるってことになったんですよ。そうするとたくさんの学生が路頭に迷ってしまうと。それはあまりにも…かわいそうなので、その時にいた黄金さん含めた友人3名で、引き継ぐことになりました。

金:3名…もう2人は?

喜屋武:もう1人は嘉数武弘さん…今ナハビを一緒に共同で(経営している)。嘉数さんと…あ!このキラキラの作品(会場の展示作品を見ながら)を作った嘉数武弘さんと。で、もう1人は福岡の出身で。もう戻ってしまったんですけど。3人で、引き継ぐって形でお互いなけなしのお金を出資して始めたのが今に至る感じです。

金:すごいですね〜。

小勝:その後、経営は順調に?

喜屋武:順調…う〜ん、まあ時給600円の男って言われているけど(笑)。おかげさまで、なんとか…。

川浪:え?じゃあ経営だけじゃなく指導もしながら?

喜屋武:はい。

金:那覇造形美で学ばないで沖芸に進学する人…ちょっと考えられない。

小勝:そういう存在なんですね。

喜屋武:今はだいぶ…沖縄では一応頑張っては…

金:あとは那覇造形美術学院が主催する入試説明会*は沖縄では最大。県外からの美大も来て、沖縄で美大説明会もするんですよ。
*「芸大美大進学相談会」。那覇造形美術学院は共催で、琉球新報社の主催。

喜屋武:地道にどうにか…

金:私はもうすでにそういう時にしか拝見してないですね。「お、すごい方!」と思って。

喜屋武:そう。最初はそうですね。はい。

池田:でもなんか伺ったところによると喜屋武さんは、あの大学の方に関わっているから、あの…

喜屋武:そうです。はい。予備校では教えてないです。

川浪:パートナーのところで一緒に教えるっていうことじゃなく、もうそこは分けて?

喜屋武:はい。ですが、ナハビ(那覇造形美術学院)に一般美術教室もありまして、上は90代の方から下は中学生、また子供たちのクラスもあって。そういうところをお手伝いしながら、っていう。

小勝:そこでは教えてらっしゃる?

喜屋武:はい、そうです。

小勝:そうですか。

金:もう、そこのね、通っている学生たちの進学率もすごいじゃないですか。

喜屋武:優秀ですよ。本当、皆さん優秀です。

川浪:ご夫婦でそうやって育てているんですね。

喜屋武:まあ…私は一般の方たちですけど。はい、とっても楽しく。

金:そうだったんですね。それでやっぱり、下の娘さんも美術目指すと言ってるんですか?

喜屋武:いえ、全然興味ないです。(絵を見たりするのは大好きですが)

金:あ、そうなんですか。

喜屋武:でも、いつも私の作品に対しても、すごくナイス・アドバイスをしてくれます。とても的確なので、ありがたいです。(笑)

金:あと…作品と制作って今までもずっと話してくださったので…様々なテーマと技法も色々用いられて、材料などにも。で、ずっと伺っていたらやっぱり当たり前なんですけれども、本当に、喜屋武さんは県芸の時代からも恵まれていらっしゃったけど、やっぱり吸収力がすごくて。あと勉強…色々調べて歴史の勉強なさったり。『おもろそうし』とか。そういうのもすごく、研究熱心でいらっしゃるから…当たり前かなと思っていますね。で、ちょっとここからはテーマとかテクニックとか材料とか…

小勝:すみません。ちょっとテーマに行く前に…先ほど、そのご家族(夫)による(美大予備校の)経営の方はすごく順調で。つまり、経済的には大丈夫になったということなんですが。実際、子育てをされている期間っていうのは、やっぱりある程度、ご自分の制作も中断せざるを得なかったと思うんですけれども。このあたりはいかがだったんでしょうか。

喜屋武:いや…えっと、あの妊娠中もずっと長女の時は臨月ぎりぎりまで仕事は続けていましたし、あの…描いてましたね。次女の時は1ヶ月ほど入院したりはあったのですが、なんかあのお腹にいるってことで…なんですかね…

金:逆にこう、新たなエネルギーが?

喜屋武:そう、もう幸せ。もうすごくテンションが上がりまくりだったんですよ。なんか(子どもが)お腹にいる時。

小勝:へ〜!その時描かれた作品っていうのはどういう作品ですか。

喜屋武:ここにないんですよ。探したんですけども。
   
金:だから、2001年とか?

喜屋武:そうですね。その頃、お腹にいる時の作品だったり、やっぱり今もそうなんですけど、羊水をテーマにした作品だったり、えっとあとは生まれてからは自分の臍の緒と、彼女の…蒼生の臍の緒を、こうサイドに置いて、間を和紙で繋いでいるような…作品を(作っていた)。平山先生からは「もう、なんちゃってインスタレーションやめたら」とかって言われて(笑)。(挿図5)

 

 

挿図5 《やわらかな水№2》2004年、サイズ不詳、素材技法:へその緒(母である私と2003年に生まれた娘のへその緒)、アクリルBOX(土台)、麻紙、膠、顔料、銀箔

 

 

金:え〜そうなんですか!平山先生のあの優しい…

喜屋武:いやいやいや。

金:すごく優しい先生なんです。きっぱり言われているんですけど、厳しく言われるなかでも、なんか独特のユーモアと…

喜屋武:はい。

金:2年ぐらい前に定年なさった平山(英樹)先生。すごくいい先生で。

喜屋武:いい先生でした。大変お世話になりました。

金:そう…いつもね、ユーモアがある…「なんちゃってインスタレーション」…(笑)

喜屋武:やっぱり空間に設置する…屏風などはインスタレーションに近いと思います。空間に設置する…そういう意識でずっと作っているので。板に描いた作品を空間にブロックで挟んで、立ち並べたりとか。いろいろ模索していた時期だったんですけど、その時も娘と私の臍の緒を、繋いだような作品です。(挿図5)

金:作品自体も残ってないですか。

喜屋武:作品自体は…えっとですね。ぶら下げてハンモックみたいな作品だったので。和紙をコラージュして繋いだ作品で。そのコラージュした作品を今度は壁面に(展示)したりとかして、変形させたりしたので残ってないですね。

小勝:そういうのはどこで発表されたんですか。

喜屋武:えーっとですね。このハンモックみたいな作品は那覇美講師展*で発表しました。あとちょうどその頃は女流美術展にも…
*那覇造形美術学院の講師18人による「NAHABI EXHIBITION 2004」浦添市立美術館 2004年6月29日-7月4日

小勝:あ〜沖縄の。

喜屋武:はい。

金:女流美術家協会*?
*沖縄女流美術家協会 1977年7月結成。初代会長に久場とよ、副会長に山元文子が就任。

喜屋武:西村立子先生が(いらっしゃるところ)。で、この先輩たちがやっぱり…かっこいいなと思ったんですよ。沖縄女流美術家協会が設立された頃の時代は、まだ今よりもずっと男性社会で。新聞での展評にも、「台所で描いたような作品を展示しないでいただきたい」みたいなことを書かれるぐらいの時代だったとか。で、宮良(瑛子)*先生とかは背中に…皆さんそうですけど「(子どもを)おぶって描いたよ」とかっていうお話を色々聞いて。今よりも大変な時代に、創作を続けてきた先輩方に、やっぱりすごく刺激や勇気を頂きました。で、自分自身も…蒼生はよく寝る子だったので、絵のそばで転がしてずっと描けたんですよ。泣いたらおっぱいあげて、また描いてみたいな感じで。すごく協力的な子どもで…(笑)。逆に子育ての間に、産休の時期っていうのは、絵に向き合えたので。逆に、なんか描けるというかな…
*宮良瑛子(みやら えいこ)(1935- )福岡県生まれ。洋画家。1971年沖縄に移住、沖縄女流美術家協会、沖縄平和美術展の創設、運営に関わる。

金:なんて親孝行な。

小勝:初めて聞きますね。そういうお話。

喜屋武:あ、そうですか。まあ、泣いてはいますよ。夜中も泣いたりするけど、外に出て仕事っていうよりは、もうその何ヶ月間は休めたから。おっぱいあげながら描けるじゃないですか。とっても幸せでした。

川浪:絵と子どもにだけ向き合っていればいい…という感じ。

喜屋武:そう。それに集中すればいいっていうのは、あのときはとっても幸せでした。

小勝:それこそ授乳で3時間おきとか、寝不足とかにはならないんですか。

喜屋武:寝不足でしたけど…ちょっと忘れてしまいましたが。

池田:蒼生ちゃんは多分、こう…もう生まれつきお母さんの絵具やら匂いが好きだったとか。

喜屋武:そうですね。

池田:子どもによって個性がありますね…寝ない子、お乳をのまない、食べない子も多いのに…

金:(娘さんは)東北芸術工科大学ですよね。

喜屋武:はい。次女の悠生(ゆうき)はもう泣き虫さんで大変でしたけど。産休明けてからがやっぱりちょっと大変でした。あの、ほら泣いたらすぐおっぱいをあげてたから、哺乳瓶に上手く(切り替え)できなかったんですよ。哺乳瓶からは絶対飲まない子だったので。保育園はちょっと可哀そうですけど、9か月からは預けたんですね。だけど、授乳のために仕事の休憩時間を利用して、(離乳食をしっかり食べれるようになるまでは)保育園におっぱいを毎日あげに行きました。

金:すごい…。

喜屋武:すごくないです。保育園の先生方には大変お世話になりました。

小勝:哺乳瓶は絶対ダメなんですか。つまり、絞って渡すとか?

喜屋武:ダメでした〜。

池田:自分をデリバリーしないと(笑)

喜屋武:そうそう。ゴムが嫌だったみたいで。毎日ほぼおっぱいをあげにいく感じではあったんですけど。実は長女も次女も二人とも、哺乳瓶から飲んでくれなかったので、土日の絵画教室の時は、母が午前中見てくれて。

小勝:やっぱり。

喜屋武:で、絵画教室まで娘を届けに来てくれて。で、教室でおっぱいあげてとか。見てもらえないときはベビーベッドを…そこのオーナーのお子さんのベビーベッドをお借りして、そこに蒼生を寝かせて。もしくはテーブルの上に置いて「今日はあおいちゃんを描こう!」みたいな(笑)。

一同:笑

喜屋武:子どもたちが可愛がってくれたので。小学校の子たちも「あおいちゃん、あおいちゃん」って、楽しんでスケッチしてくれました。泣いたらおっぱいあげながら。おっぱいあげている私を描いてもらう(課題を出したり)。

小勝:笑

喜屋武:こんな感じで(笑)

小勝:大らかでいいですね〜。

喜屋武:そんな感じでした。

金:なんかミニミニドキュメンタリー!映像で撮っても良さそうな…

喜屋武:みんなに育ててもらった感じですね。特に母には感謝しています。

池田:私、あの県立美術館で《母の詩》*を見てきたんですけど。あのままですね。
* データベースとのリンク→画像4 奥左:《母の詩(ははのうた)》 2012年 https://asianw-art.com/kyan-chie/

喜屋武:はい、そうですね。

池田:シルエットであの妊婦さんが描かれていて。で、そして手前にお母さんがこう威厳のある姿で座っていらっしゃるんだけど。そういう物語がすーっと重なるみたいな。

喜屋武:そうですね。母性の象徴として描かれているモデルは母だったんですけど。うん。あれもなんかまた羊水というか。

小勝:蘇鉄の前のお母さん(が描かれた作品)ですか。(挿図6)

 

 

 

 

 

 

挿図6 《母の詩(うた)》2012年 天然顔料、墨、膠、金箔、雲肌麻紙 162.0×162.0㎝ 沖縄県立博物館・美術館寄託

 

喜屋武:はい、そうですね。

金:あ、これですね。

喜屋武:ですね。はい。今もそうですけど、(母には)すごいお世話になっています。

金:今も!はい、そうですか。今はお嬢さんたち、みんな大きくなっているけど。

喜屋武:あ、そう、私が帰りが遅いときとかも、もう腰が痛かったりするんですけど。家にいて迎えてくれたりとか。夫も夜が遅かったりするので。

金:あ、そうですね。お互い忙しいお仕事…

喜屋武:はい、もうありがたいです。

小勝:内田(あぐり)さんもおっしゃっていました。やっぱりお母さんのお世話になったと。
*本サイトの内田あぐりインタビュー参照 https://asianw-art.com/interview/uchida-aguri/

喜屋武:本当にそうです。もう母がいなければ続けてこれたかどうかちょっとわからないですね。

小勝:うん、そうですよね。

喜屋武:本当にもう感謝しかないですね。まあ、もう父は他界しているんですけど。父がまた大酒飲みで。私もお酒好きなんですけど(笑)。そう、暴れるタイプの大酒飲みだったので。普段はとっても静かで優しい父だったんですが、お酒入るともう、お金…そう、給料全部使って帰ってくるとか。

小勝:え〜!

喜屋武:(母は)大変だったと思います。はい。大変だったと思います、とっても(笑)

金:じゃあ、ちょっとテーマとか、先程の…。2017年の個展の「やわらかな水・つよき土」のときに、お連れ合いの黄金さんが書かれたレビューによると、それぞれ、その時にしか描けない作品があって。例えば、40代の自分にはこれしか描けないとおっしゃっているんですけど。まあ、そんなにしっかり区切りがなくても、様々なテーマと用いられる技法とか材料などについてお聞きしたいと思います。
特に、昨年の個展の「共鳴」の会場でも伺った沖縄の赤土とか琉球藍とか小笠原諸島から流れてきた海底火山噴火の時の軽石(?)の画材に対する興味、とても興味深かったです。あの時、すごく生き生きと話されていました。あと、ギャラリー・アトスでも。あの話もすごく興味深かったんですけど。
特に画材の物質性と描くテーマのイメージは、その作家の直感やインスピレーションの中で深く繋がっているのではないかなと常々、思っているんですね。喜屋武さんの作品において、同じことが言えるのではないかと思っているんですけど。そのことについて。
それから「白澤」*…先ほども白澤の話がちょっと出たんだけど、母性信仰、祈りなどなど。小林純子さんのレビューによると100歳の老女を使ってもう1回、そんな表現をしたかったとおっしゃっているんですけど。そのイメージについて、もうちょっと詳しくお話しください。
*白澤 中国に伝わる瑞獣(神獣・聖獣)の一種。人間の言葉を解し万物の知識に精通するとされる。その姿を描いた図画は魔除け(厄除け)として用いられる。

喜屋武:はい。

金:私が沖縄に来たときは、2015年ですけど、その時も喜屋武さんというと「白澤!」という、すごくインパクトが強くて、素敵で。

小勝:この2002年の(作品)? 
*データベースとのリンク→画像5《白澤(はくたく)》2002年   https://asianw-art.com/kyan-chie/

喜屋武:あ、そうですね。中国から帰ってきて「白澤描きたい」って思っていたので、帰った時に。ちょうどその頃は…このハジチ*とかにも(興味をもっていて)。
*ハジチ ハジチ(針突)とは沖縄・奄美でかつておこなわれていた、女性の手の甲に深青色の文様を施した風習。成女儀礼や子孫繁栄、魔除けなどのために指や手の甲などに施された。明治32年(1899年)に日本政府から禁止令が出されたが、昭和の初期まで密かに行われていた。

金:ハジチ!入れ墨の。

喜屋武:そう。ルーツを調べていた中で、やっぱハジチにも出会いますよね。ちょうど今日着ているTシャツのね、このハジチもね。「あ、かっこいいな」と思って調べていって。

金:かっこいいですね。うん。

喜屋武:調べていたんですね。ハジチの文様にもやっぱり意味がある。学部の頃から文様には興味を持っていたので。

金:なんか村によって違うとか…。

喜屋武:はい。地域によっても違うし。で、やっぱりそこの土地の人たちは、こうハジチを入れるっていうのは大人になるような、嬉しい気持ちでやった部分もあったりしていたみたい。まあ、諸説あるんですけど。で、私が子どもの頃は、ハジチしているおばあちゃんたち、結構いらっしゃったんですよ。いつも綺麗だなと思っていたんですが、いざ描こうと思った時にはもう周りにいらっしゃらなくて。それで、老人ホームを回って取材した時に、ナベさんに出会いました。

川浪:ナベさん…。

喜屋武:はい。でも、ナベさんその当時、100歳だったんですけど。もうハジチされてなかったんですね。

金:あ、そうだったんですね。

喜屋武:訪ねる時期がちょっと遅かったです。だけど、ナベさんのお顔がもう、とっても素敵で。自分自身のことも、ちょっとわからない感じではあったんですけど、ずっと童謡を口ずさんでいて。

金:どういう童謡ですか。

喜屋武:なんだったかな。

金:沖縄の歌?

喜屋武:はい。はっきり歌わないので。なんか「フンフン〜♪」って(歌って)。

金:口ずさむ?

喜屋武:はい。で、手もとても美しくて!スタッフの方が「ナベさんはね、ずっと畑をやっていたから、手がすごくごつくて、かっこいいよね」(と言ってて)。で、描かせていただいたんですよ、ナベさんを。見つめてくるんですよ、こう描いていると。自分を全部、見透かされているような感じがしたんですけど。なんかこう生き抜いてきた美しさっていうか。だから、ナベさんのお顔にしたいなと思って。最初に描く白澤はナベさんのお顔で。

金:うん…そうだったんですね。

喜屋武:はい、描きました。

金:私もちょっとその辺が…えーと、元々の白澤というのは、ここ(資料)に、出現を祝うこの花びらを散らして…すごくめでたいですね。そういうイメージは元々の白澤とも繋がるイメージなんですか。

喜屋武:えっと、散華って言って…あのよく仏教説話の作品とかにも、このお花がふぁーっと蓮の花びらだとかって散ってくる瞬間があったり。あと、有元利夫さんが好きで。有元さんの《花降る日》(1977年)てあるじゃないですか。あの花が降ってくるあの瞬間とか空間とか。こう時空を超えた…平和が訪れるような、そういう願いも込めて、花を散らしたんですけど。で、白澤の背景のぐるぐる動いている、これコラージュなんですけど。

金:ああいうのって、仏教の思想と関わりがあるんですかね。韓国の仏教でも「花の雨が降る」というのが…

喜屋武:あー、そうですか。

金:そうなんですよ。

喜屋武:なんかね、ちゃんと調べてはいないんですけど、花が降ってくるって。

金:お寺の法要の時も…。

喜屋武:はい。ヨーロッパでも「花が降ってくる」…なんかありますよね。白澤の像の周りはコラージュなんですが、これ、ろうそくの炎の揺らぎ。こう、置くと動くじゃないですか。まあ煤がつく。墨の元ですけど。和紙をこう…

川浪:燻して?

喜屋武:そう。和紙を燻して、それをコラージュしているんですけど。

金:あ、そうなんですね。

喜屋武:なんか、あの自分で描くとわざとらしくなって。本当に炎の揺らぎだったり。まあそれはある意味、…今までのこういう戦火があった時代を象徴しています。そういうものもあるけれども、これからの世は…っていう、平和を求めるみたいな、そういう思いを込めて描いた作品。

金:あ、そうなんですね。

喜屋武:白澤は平和な世の中に導く聖獣(瑞獣)でもあるので、麒麟とかそういう聖獣の仲間ですけど。白澤が出現する世になってほしいという思いで描いた作品…ですね。

金:そうなんですね。今そういう、「祈り」とか「平和」の話ですけど、母性信仰、祈り…《祈りの地》(挿図7)、2017年の。これは斎場御嶽を(描いた)?

 

 

 

挿図7 《祈りの地(いのりのち)》2017年、180.0×400.0㎝、麻紙、膠、天然顔料、墨、金銀箔、金銀泥

 

喜屋武:斎場御嶽(せーふぁうたき)*ですね。
*斎場御嶽 御嶽(うたき)とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽(せーふぁうたき)は琉球開闢(りゅうきゅうかいびゃく)伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地。また、琉球国王や聞得大君(きこえおおきみ)の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り(あがりうまーい)」の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されている。南城市観光協会HP https://okinawa-nanjo.jp/sefa/

金:これです、これです。斎場御嶽。

喜屋武:ちょうど、はい。ここの赤壁のね、タルガニーで展示した作品。

金:それこそ材料とか素材とか、そういう話もちょっと挟みながら(お話しいただけますか)。

喜屋武:そうですね。赤土も使用していますし…

金:はい。この《祈りの地》ですね。2017年の斎場御嶽(せーふぁうたき)。

喜屋武:だんだん…年を重ねていくうちに変化して…まあそれまでは、原色の色とかとっても好きだったんですよ。

金:先ほどもインスタレーションでショッキングピンクと繋げたとか。

喜屋武:色々実験したりしていたんですけど。最近は、シンプルに描きたくて。天然顔料と膠を、指先を使って絵皿の中で練っている時に…

金:あ、練ってる時に?

喜屋武:練っている時に感じる温もり。それは、母性性のようなもので、母なる大地や海のような、育み生み出すエネルギー、地球(ガイア)的なものです。元々原始美術のようなネイティブなものが好きなんです。それをチューブじゃなくて、自分で手で練れるっていうところも、日本画っていうか、まあ膠絵というか好きな部分でもあったので。

小勝:なんかこう洞窟壁画みたいな感じとか?

喜屋武:はい、大好きです!だから敦煌にも本当に行きたかったんです。まだ行けてないんですけど。で、あのラスコーだったり。

小勝:うん、そうですね。

喜屋武:ラスコーの洞窟も炭で描いたりとか、その辺の土で描いてたりするじゃないですか。

小勝:あの岩の突起とか、それを活かしてね。

喜屋武:もう、本当に大好きです!アボリジニの絵だったり、縄文の渦巻きだったり…。すごく根源の…蘇鉄が好きなのも原始植物っていう、そういうものにすごく惹かれる自分がいて。そんな流れから、近年は自分でも土を採取して創作に使っています。

金:伺った話、あ、そうそう。

喜屋武:2015年頃、読谷飛行場跡地の開発計画で、赤土がむき出しになっていて、それが西日に照らされて、鮮やかな朱色でとても美しかったんです。なので、小さな娘たちに手伝ってもらって、取りにいきました。勝手に取ったらダメなんですけど。

川浪:え、そうなんですか(笑)

喜屋武:その時は色が美しくて感動して、拾ってきたんですけど。調べると読谷飛行場跡地っていうのは、第二次世界大戦の際に、農地だったところを強制的に日本軍が接収して、飛行場にして。敗戦後は米軍がそのまま使用して、ずっと基地の中だったじゃないですか。で、それをその読谷の人たちがすごく運動して。そこにお墓もあるし、先祖の土地だしってことで。返還…取り戻した場所なんですよ。だから、希望のバイブレーションっていうか、いろんな記憶や想いが浸み込んでいる。なので…そんな希望の赤土を使って、描きたいと思ったんですね。

池田:ちょっと、あの話を蒸し返すようになるんですけど。その赤土の美しさというものに気づかれた時期っていうのは白澤を描かれたよりは後ですか。

喜屋武:後です。

池田:はい、そうなんですね。なんだかやはり優れた表現者の人って、次に出会うものを前の作品で予感しちゃうみたいなところがあるのかなって思って。私は白澤の絵の中の、あの墨も今日伺ったら、その蝋の炎の動きで表現したとおっしゃっていたのがすごく印象に残ったんですけど。あの赤の色もね、散華だったら雨のように花が降るとか、ただ花びらを散らすというような表現で済むというか。そういうよくある散華のイメージに留まりそうなのに、赤い何かか動いてる感じがしてとても印象に残っているのです。あの赤には、やはり血を感じたりしたんですよね。見た時には。赤と言えば蘇鉄の実も・・・蘇鉄を描き始めたのは大学卒業の頃からだったとおっしゃってましたね。

喜屋武:そうですね。はい。蘇鉄…中城城跡(なかぐすくじょうあと)*がまだ世界遺産に登録される前で。そこに、蘇鉄の群生があるんですよ。今は立ち入り禁止ですけど。ちょうど夕日がババーンと雌株の朱色の実に当たって美しくて。10月ぐらいに朱色の実(種子)を抱くのですが、まるで母親が子供を抱くように感じて。それから毎日通って夢中になって描き始めたんですけど。
*中城城跡(なかぐすくじょうあと) 世界遺産中城城跡HP参照 https://www.nakagusuku-jo.jp/heritage

池田:求めていたものが実際に目にこう、飛び込んできて。また描いたものが次の出会いを生んでいくっていうことなのかと、今、喜屋武さんのお話を伺っていて思いました。
もう一つだけ白澤にこだわって、あの母性に関することなのですが発言していいですか? 自了のあの絵って、顔つきはすごく男性的で、威厳があるのだけれども、喜屋武さんの白澤には、また異なる迫力を感じるんですよね。どのように意識されたのか、伺いたいところなのですが、喜屋武さんの白澤では、胴の部分、三つの目が描かれる位置が、自了の作品とは違う。乳房のように盛り上がったところに、大きく見開いた目がある。私は、喜屋武さんの白澤を見た時点で、ナベさんというおばあさんをモデルに描かれたことを知りませんでした。おばあさんをモデルにされたことで、つまりナベさんのイメージが重なることで、白澤の身体の表現もかなり変化したんでしょうか? 要領を得ない、わかりにくい質問で、すみません。

川浪:(作品を見ながら)どっしりしてますね。
*データベースとのリンク→画像5《白澤(はくたく)》2002年  https://asianw-art.com/kyan-chie/

池田:すごい力を感じます。角が生えている場所もね、自了の白澤だと背中からシュッと生えてるんだけど、喜屋武さんの白澤の角はこぶのところから…

喜屋武:もりもりしてますね〜。

金:もりもりしてます!

池田:これはどういう発想だったのか、一度聞いてみたいと思って。

喜屋武:そうですね。自分が白澤を描こうと思った時に、あの白澤って体が牛で、顔にヤギの髭があって…とかっていう描写がありますよね。で、その時はちょうど中国から帰ってきたばかりで、唐時代の《五牛図巻》を模写してきたこともあって。その牛の表現が好きだったので、参考にしました。その牛の形に、自分なりに目やトゲを描いていきました。

小勝:現実の牛を写生したっていうわけではないんですか。

喜屋武:あ、牛も写生しました。

小勝:そうですよね。

喜屋武:実際の牛も見て。

小勝:いかにもこう生き物としての筋肉のつき方が自然に…

喜屋武:そうですね。で、爪?

川浪:リアルですもんね。

小勝:そうですよね。

喜屋武:闘牛が盛んなので。

金:そうなんですよね。沖縄の牛って闘牛として、またね。

喜屋武:牛オーラセー*って(いって)。大好きな人たちはもう。
*「牛オーラセー」は沖縄の大衆的な伝統娯楽である「闘牛大会」のこと。沖縄の牛オーラセーは「牛vs牛」で闘う。https://okinawaspirits.com/okinawabullsfighting0511/

川浪:マッチョな牛ですね。

喜屋武:マッチョな牛が…。そうですね。

池田:すごい生命力を…(感じます)。

喜屋武:年代で、白澤の表現も変化していくのが、自分自身、面白いなと思います。

小勝:すいません。これはそもそもどこに発表されたんですか。

喜屋武:これは。どこでしたっけ…。

小勝:2002年の白澤は。

池田:これは県美が持っている?

喜屋武:はい、県美が持っています。これは個展かな。はっきりは覚えてないですが、たぶん個展で発表して、それでずっと自分の家に(保管していた)。

小勝:あー、そうだったんですか。

池田:佐喜眞美術館の作品はタテ型ですよね。

喜屋武:はい、タテ型です。

池田:また印象が違います。

喜屋武:はい。佐喜眞美術館収蔵の《白澤2019》は、下に、月桃紙に描いた蘇鉄のドローイングが…コラージュしてあるんですけど。お顔もまた色々こう自分なりに…(挿図8)

 

 

 

 

 

 

挿図8 《白澤之図2019》2019年、194.0×130.3㎝、麻紙、月桃紙、美濃紙、ピーニャ布、天然顔料、墨、膠、金銀箔、金銀泥 佐喜眞美術館蔵

 

 

喜屋武:そうですね…。あ、まあ一応…作品(《環(かん)》1994年)。これが蘇鉄…見えますか。

小勝:これが、それは94年?

喜屋武:はい。これが、川端龍子(で出品した作品で)、150号ですね。(挿図2)

小勝:あ〜川端龍子(賞展)…。

喜屋武:これは和歌山市…和歌山市立博物館が収蔵なさっていて。

喜屋武:で、この後、これは大学院の修了制作で(描いた)《胸中の華》*(という作品)で。これも蘇鉄が(描かれている)。その頃は、人体、女性のラインが好きで。人体と植物(ガジュマルの気根)とを構成して制作していた時期です。で修了制作も蘇鉄と…。まあ、この、ずっとこう、空間に出てきてまた戻ってくるような。これも買い上げしてもらえなくて。で、ずっと家にあって、ものすごく大きくて。で、タルガニーで自分自身の初期からの作品を展示させていただいて、2017年に。**。その時に発表した作品です…
*データベースとのリンク→画像6《胸中の華》 1994年 
**個展「やわらかな水・つよき土」、キャンプタルガニー、2017年
 
小勝:はい。

喜屋武:あ、また久しぶりに発表して。

小勝:えっと、最初に発表したのはどこですか。

喜屋武:これは…修了。大学院の修了制作展です。
それで、今回「琉球の横顔」*でも展示してもらえる幸せな機会を…
*「琉球の横顔 描かれた「私」からの出発」展 沖縄県立博物館・美術館 2022年

小勝:いや、素晴らしい作品ですよね。

金:これは素晴らしい。

喜屋武:ありがとうございます。

小勝:もう図版しか見てないですけど。今はどうなってるんでしょうか?…

喜屋武:個人の方にコレクションしていただいています。で、あの向こうの屏風の形になってる《蘇生》、あの作品も個人コレクションしていただいて。

小勝:すごいですね〜。

金:同じ方が?

喜屋武:はい。

小勝:素晴らしいですね。

喜屋武:ありがたいです。

小勝:こちらは初期の代表作ですよね。

池田:かなりでも、厚塗りなんですよね。

喜屋武:はい。盛り盛り時期です(笑)

金:盛り盛り時期!

喜屋武:ものすごく盛ってます。とても厚塗りしています。

金:盛ってる日本画。

池田:雰囲気はすごく一貫しているような感じがするのに、マテリアルが違うのが印象的ですね!

喜屋武:はい、そうですね。だから、本当に20代だからこそ描けた作品。だから久しぶりに(2017年の個展で)この作品を見た時に、すごく背中を押されたんですよ。今の自分が20代の頃の自分に、すごく叱咤激励された。

小勝:なるほど。

喜屋武:ずっと(作品を)大切に保管していたんですけど。展示して、なんか自分でもう吹っ切ろうと。もう捨てようかなと思っていたんです、作品を全部。全部捨てて、新たにスタートしようと思ってた時にコレクションしてもらったんで、ありがたかったんですけど。

金:これを捨てようと思ったんですか?

喜屋武:そう、だからずっと大事にしてたけど…。

小勝:自分の昔の作品を見て「すごい!」と思うみたいなのは、内田あぐり先生もおっしゃっていましたね。この前のインタビューでね。
*本サイトの内田あぐりインタビュー参照 https://asianw-art.com/interview/uchida-aguri/

池田:でも、そういう意味でも、そういうミッドキャリアでの展示っていうのは、機会を持つっていうのはすごい重要!その力があるからこそ、その自分に向き合えるっていうこともあるのかな、とか思いますね。

喜屋武:大切ですね。

池田:でも、これ人体と植物っていうは、内田先生に学んだことが、ひょっとすると、どこかで影響を及ぼしているのでは?…。

喜屋武:そうですね。確かに…確かにそれはあるかもしれないですね。

池田:面白いですね。隠れた影響関係…と言うか、学んだことが形を変えて脈々と生きているのかもしれませんね。。

小勝:喜屋武さんは、あの、そのままの写実で裸婦とかはお描きにならないですよね?

喜屋武:あ、学生の時は描いていました。あと、写実的な裸婦以外に、ここ(資料)にはないですけれども。鏡の前の裸婦を鏡の中の姿とあわせて抽象的に描いたりしました。

小勝:あー、そうなんですか。

喜屋武:体のフォルム、ラインとか線にすごい興味があったんですね。その時は、気、テンション(などに)…

金:き?

喜屋武:気持ちの気。テンション(気)にすごく興味があって、それをテーマに描いていました。そのラインをテンションというか、こう…ラインで、ラインと色で(表現する)。人物の裸婦を描いたのをこう解体して、こう動きを作って(というふうに)、やっていました。

小勝:なるほど。

金:わかりました〜。

川浪:《胸中の華》っていうタイトルも、なんか…

小勝:すごいですよね…。

喜屋武:なんだか(笑)ちょっと激しいんですけど。人それぞれの中にある、そういう…大切なもの。

川浪:20代の頃の作品が後押ししてくれるって、さっきおっしゃってましたね。予見的っていうのとまた違いますけど、そういう巡り合わせっていうのがね。意識しなくても。

金:これ、横4メートルなんですね。

喜屋武:そうですね。

小勝:蘇鉄の雌花?実なんですね。蘇鉄の実がいっぱい!

喜屋武:そうです。雌花…。

小勝:雌花ですね。

池田:すごい迫力ですよね。

川浪:龍がうねっているみたいに見えます。クローズアップというか、実際に近くで見ると、繊細な線描の表現とすごく具体的なイメージが相まって…特徴的ですね。

喜屋武:ありがとうございます。確かに、なんか、あの…なんだろう。あまり具象、抽象って、考えたことがなくて。(資料を出しながら)見えますか?

小勝:見えます。よく見えます。

喜屋武:アップ…これ(作品)のアップで。

川浪:蘇鉄の実は、あれは1個1個が育つんですか?

喜屋武:そうです。この実が落ちて。

小勝:うちの庭にも蘇鉄の古い木があるんですよ。

喜屋武:蘇鉄ちゃんがいるんですね。

金:ものすごい存在感。

池田:埼玉で?!

小勝:ここは南国かしらみたいな。(写真を撮って)沖縄に行っていますって言うと、それでもう(信じられるみたいな)…。

喜屋武:そうですね。そう、このふわふわが…毛が生えているんですよね。毛っていうか、あの動物みたいに。

金:そうなんです。動物…っぽいよね。

池田:《共鳴》にも描かれていますよね。
*データベースとのリンク 図版2.《共鳴―昇華》2022-2023年

喜屋武:はい。毛を描いています。ちょうど人間の子宮にも似たような卵管采というものがあって。あの全く一緒で。本当に繋がっているんだなって。それで、イチョウと蘇鉄は原始植物で、あの…この雄花から花粉が飛んでったら、花粉が精子みたいに、動いて泳いでいくんですよね!

金:あ、イチョウ!そうですよね。

喜屋武:そう。蘇鉄もそうで。雌と雄で。

小勝:この実がね、地に落ちるでしょ。そこからピっとまた(芽が)出て来るんですよね。もう本当に。でも、私はいっぱい芽生えると困るんで、抜いているんですけど。あと幹からも次々と芽が生えてきて…。

川浪:強いんですね。

小勝:強いんです。

喜屋武:芽がバーンと出た後、あの…こう渦巻いてるじゃないですか。あの葉っぱが。若芽がぐるぐる、ぐるぐるで。

川浪:植物じゃないみたいな、不気味な…。

喜屋武:そう!おもしろいですよね。そうなんですよ。

池田:確かに…植物というよりは動物のような…

喜屋武:そう、動物的な(植物)。

小勝:《赫土の国》(挿図4)では貝を中心に描いていますね。

喜屋武:そう、この頃は、イモガイ?琉球が貝の道っていって、琉球弧…あの…それこそ東南アジアからこの貝をなんて言うんですか。縄文時代にもこの貝が…

川浪:もしかしたらこう…装飾…装身具とかになったような?

喜屋武:そうです、そうです! 

川浪:ポリネシアとか、あの贈与の貨幣代わりになるっていう…

喜屋武:貨幣にもなったり!

金:アクセサリーにもなったり。

川浪:そういう貴重な貝ということですね。

喜屋武:そうです。貝にもすごい興味があって。なんで惹かれるんだろうって調べていったんですけど。あの、よく港川原人とか。出土したら貝が一緒に。

川浪:葬られるときに?

喜屋武:葬られるときに!その貝の下に傷があったり…。だから治療の為の魔術的な意味があったり。原始的な祈りを込めたものだったり。
で、「白澤」博士みたいな方が…2019年のギャラリーアトスでの個展にいらして。「白澤は中国の神話が元って言われているけれど、これは実は元々貝だと僕は思う」っておっしゃっていて。

小勝:え〜!

喜屋武:貝。で、あのスイジガイってわかります?あのスイジガイとか。沖縄も玄関にぶら下げるんですよ、魔除けで。

小勝:へ〜。

喜屋武:貝って目が八って書くじゃないですか。

金:うんうん。

喜屋武:目が八って。貝の漢字。「その「八」っていうのはたくさんって意味だから、目がたくさんあるっていうことなんだよ」と。「だから白澤っていうのは貝がルーツって僕は見ている」っていう風におっしゃっていて。

小勝:ふ〜ん。

喜屋武:っていう方もいて。だからそれが中国に渡って、中国の神話とくっついて。

喜屋武:はい、そんな感じで。この頃は貝もずっと描いたりしています。はい。

小勝:なるほど〜。同じ顔なんですね。こちらの新しい白澤も。(挿図8)

川浪:あ、あのナベさんとは…。

喜屋武:ナベさんとはまた(違う)。

川浪:ナベさんよりは柔和な顔に見えますが。

喜屋武:はい。あの、菩薩さまや母の顔とか混っているんですけど。ほんとに、何度も描き直したお顔です。で、半分目が閉じているのは、やっぱりナベさん。半分目を閉じて…なんか全部見据えないっていうか…優しさ。(挿図8)

池田:なんか角も増えていますよね。

喜屋武:角も増えています。はい。ここの下には全部蘇鉄のドローイングが…コラージュ…

池田:蘇鉄なんですか?!

喜屋武:はい。雲の下に全部ドローイング…。いつもドローイングを自分の気持ちがいいっていうか…テンションがいい時にしていて、その気がここに乗っかるように、あの…コラージュしているんですけど。この他の作品も。この蘇鉄には次の時代を育んでいく、繋げていくというか…そういう気持ちを込めているので。

小勝:コラージュっていうのは、下の紙の上に上の紙を貼るんですか?

喜屋武:そうです。貼っていく。こう…最初からもう構図を決める…ある程度は決まっているけれども、そこになんか、あの…いろんな材質だったり、その時の気持ちの…。いざ描こうとすると固くなるんですよ、線が。なので、こう…乗っている時の美しい線だったり、ドローイングの線だったりを、後で和紙に描いたものを貼ったり、月桃紙に描いたものを貼ったり。あとはそれこそピーニャって言って、パイナップルの繊維でできたものだったり。異素材…だったり、その土地のものを使うことで、なんかこう…土地のエネルギーにも助けてもらってるような部分もありますね。

川浪:月桃紙というのは、昔から沖縄で使われてきた?

喜屋武:え〜っとですね。その辺は調べてないので、分からないです。月桃自体は、あの防腐効果があるので。

池田:食べ物包んだり?あのお餅の。

喜屋武:あ、そうです。ムーチー。あとは消臭剤に使ったり、化粧品に使ったり。だから月桃紙はいつからなのか…。芭蕉紙とかも今はあったり…。琉球王国時代は、なんか雁皮紙?青雁皮って言って、雁皮紙とかを作ったりもしていたそうなんですけど。なんか、色々そういうものがあって…

川浪:月桃というと、お餅を包むことしか知らなかった、木も花も見せてもらったことがありますが。

喜屋武:美しいですね。防腐効果があるんですよ。はい。

川浪:紙にもなるとは(知らなかった)…。

池田:いまお土産で、たまに、あの月桃紙の沖縄のなんかポストカードとかは見たことはあります。でもいつから作られているのかは知りません。

川浪:さっきおっしゃった素材性というか、紙の質や雰囲気もコラージュに違う存在感を与えるんでしょうね。

喜屋武:(お土産のポストカードを渡しながら)包んでいるのが月桃紙です。あと、素材の話になっていくんですけど。

金:あ、はい。そうそう、これがもう琉球絵画との関わりで…あの、えーと、今やっていらっしゃる「失われた琉球絵画の復興」は「宮良殿内板戸絵の素材及び技法研究~琉球絵画の一側面~」という科研を。

喜屋武:はい。

金:2019年からやっていらっしゃるんですね。平良優季さんも一緒に?

喜屋武:これは私ですね。

金:あ、すいません。2019年から20年は、それは、あのやっぱり研究でいらして、科研は「宮良殿内の板戸絵の素材及び技法研究」ですね。

喜屋武:はい、手伝ってもらったりしています。

金:はい、はい。だから琉球王国の文化遺産集積再興事業における絵画復元研究。これが私が2015年にここに着任した時に、沖芸で荒井経先生もいらして、その時の報告会の時に初めて(見た)。ここも素材の話とかが入ってくるので。また、どうぞお話しください。

喜屋武:ずっと琉球絵画の復興につながることをしたいと思っていたのですが、なかなかそのような機会がなかったんですよね。2012年に、御後絵(おごえ)*の復元事業が始まって、それは沖縄県が東京藝大の保存修復チームに依頼したものでした。沖縄にいて携わることができない歯痒さみたいなものを感じていました。

*御後絵(おごえ) 御後絵とは、琉球国王が亡くなった際に描かれた肖像画で、沖縄戦で全て消失した。沖縄文化研究の第一人者の故鎌倉芳太郎氏が戦前撮影した写真とモノクロ乾板が残っているだけだ。鎌倉氏は尚育王のほか、尚円、尚真など合計10人の琉球国王の御後絵を撮影。第2尚氏18代尚育王(1835-47)の御後絵がカラーで模造復元された。「色彩豊か「御後絵」復元 尚育王肖像 沖縄戦で焼失」、琉球新報2014年09月19日 https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-231801.html
その後、戦時中に沖縄から流出した文化財がこのほど米国で発見され、14日に沖縄県へ引き渡された。玉城デニー知事が15日の定例記者会見で発表した。発見・返還された文化財は22点。第二尚氏第13代国王尚敬と第18代国王尚育の御後絵(琉球国王の肖像画)が含まれている。琉球新報2024年3月15日 https://news.yahoo.co.jp/articles/e3c990cc1072984bf35bd718276dc8d4b0218cd7

金:最初ね…うん。

喜屋武:荒井経*先生は、沖縄県から委託があった時、沖縄の人たちも一緒に(復元を)っていうお気持ちがあったそうですが、あの…それは、その時には叶わず。ですが、私はやっぱりその土地の人の感覚が加わらないとちょっと違うんじゃないかっていう事を思っていて。で、話す機会があって。平良優季*さんが博士課程の時に、荒井先生をお呼びして。
*荒井経(あらい けい)(1967- )日本画家、東京藝術大学大学院美術研究科 保存修復日本画研究室教授。
*平良優季(たいら ゆうき)(1989- )沖縄出身の日本画家。沖縄県立芸術大学博士課程(日本画)修了。

金:そうですよね。はい。

喜屋武:その時に、荒井先生と直接お話しする機会があって、私たちの想いをお伝えしました。
その後、荒井先生のご尽力のおかげで、人材育成という観点から、沖縄のメンバーも参加させていただける事になりました。それで《四季翎毛花卉図巻》の工程模型製作に、私と平良優季さんも一緒に加えていただいたっていう経緯があって。

小勝:それはよかったですね。

喜屋武:ほんとにもう、ありがたかったです。

金:研究成果報告会、すごかったですよね。

喜屋武:どうもありがとうございます。

金:うち(沖縄芸大)の大教室でやってて。実際あれ(模写)も見せていただいて。荒井先生も来て。

喜屋武:はい。

小勝:荒井さんは栃木県出身なんですよね。(小勝は元栃木県立美術館学芸員)

喜屋武:ああ!そうですよね。

小勝:お父さんも日本画家で。院展の画家、荒井孝さん(1938- )。

喜屋武:ほんとに素晴らしいご家族ですよね。

池田:じゃあ本当に生え抜きなんですね。でも、柔らかい方ですよね。

喜屋武:柔らかいです。

小勝:あの東京学芸大学で最初教えていらして、そのあと藝大の保存修復に移られた。(画家としても)ご自分の作品もね、いい作品を制作されていて…

喜屋武:素晴らしいですね。

池田:保存修復やあの美術史研究者とのネットワークも素晴らしいみたいで…

小勝:そうですよね。

池田:私の勤めていた大学(千葉大学)の出身者を含め、博物館の研究員の人たちも、様々に協働しているようです。

喜屋武:そうですよね。そうなんです。そういう経緯があって、加えていただいて。

金:それが2015年から18年までの…

喜屋武:はい。

金:琉球王国…先ほどの文化遺産事業…。

喜屋武:はい。とても力をつけさせていただきました。やっぱり転機になった部分でもあって。だから、やっと中国で学んできたものが「ここで生かせる!やったー」って。ほんとは若い人を優先すべきところ、私も加えて頂いて。ありがたかったです。

金:8年前ならお若いですよ。

喜屋武:孫億の《四季翎毛花卉図巻》は、7mにも及ぶ長い絵巻です。こちらは東京藝大保存修復チームが手掛けました。この復元事業の目的として、手わざを残し伝えるという目的があって、制作手順を残す製作工程見本を、沖縄チームが担当させていただきました。まず最初に、こう墨上げも…墨線を上げて、それで絹に転写して。それで裏彩色があるんですよ。裏から彩色して、それで仕上げ。その途中経過を見れる形にして、それも博物館に納めたんですね。

金:あ〜。

喜屋武:東京と沖縄を行き来しながら進めていく中で、思いがけない多くの発見がありました。沖縄の光線で見る見え方と東京の柔らかい光で見る見え方とまた違うっていう発見もあったりしました。絹の隙間から、強い光線が来て、やっぱり沖縄のこの色彩は角度なのか?と思ったりしました。

金:ああ、そうか!やっぱり角度ですね。

川浪:顔料の?

喜屋武:同じ顔料でここで描いた見え方と、東京に運んで、向こうで制作しますよね。やっぱり見え方が違う。あとは膠の濃度。向こうの濃度だと、暑い沖縄では定着しなかったりするんですよ。だからちょっと濃い目になる。その土地の風土と表現の関係性をあらためて考えることに繋がりました。

池田:そうか。わたし、《共鳴》がこんなに色鮮やかな絵だったかしらと、実は思ったんです。なんか京都で見た時と、ちょっと違う。あそこ、光あんまりないじゃないですか。光が強くなくてよかったと考えていたのですが…
ここで見たら、こんなに鮮やかか、って。

喜屋武:(沖縄だと色が)ババーンって(見えてくる)。そうなんです。

川浪:さっきおっしゃった地元っていう…。

喜屋武:はい、風土の、それぞれの土地の良さを実感できた。あの柔らかい光の良さだったり…。だからそこで創作していく…っていうことが、なんかすごく実感を持って感じられたっていう部分はありました。

川浪:その土地の方が研究や修復に参加しているという意味で言うと、そういう繊細な部分の気づきは、やっぱり…

喜屋武:ありました。

川浪:喜屋武さんだからこそ、気づきがあったんでしょうね。

喜屋武:ありがとうございます。そして、保存修復の方たちとの交流の中で、本当にいろんなことを教えていただいたので。学べることが幸せでした!

金:この(藝大の保存修復)の方たちも、多分ね、沖縄の人たちから(学んだんではないですか)。

喜屋武:そうだと嬉しいです。

金:いや、それはそうですよ。

喜屋武:すごく勉強になりました。もうありがたかったです。で、保存修復のあの部屋で描いているときに、ちょうど敦煌研究員の方々も留学でいらっしゃっていて。彼らも一緒に描いたんですよ。孫億の絵って細かすぎて、チームで描いているんじゃないかって言われてるんですけど。手数が多すぎて。薄い色を乗せて、ぼかし、乗せて、ぼかしって、こう(筆を)2本使ってぼかしていくんですけど。 やっぱり彼らの筆さばき?で、なんか憧れの敦煌の彼らと一緒にまたできる。なんかすごくタイムスリップしているような。なんか自分も絵師になったような。すごくいい経験で。で、そこで学んだノウハウっていうか、「あ、そういう手順で色を分析するんだ」と。例えば、あの縁ができますよね、ネットワークが。だからこの東京文化財研究所の先生方ともネットワークができたので、「あ、そうだ、今だったら、あの宮良殿内ができる」
  
金:あ、それで。

喜屋武:そう。それで、あのまりなさんが「やらないと」って背中を押してくれて。そう、仁添まりな*さんが背中押してくれて。で、ずっと「ま、誰かやっているだろう」と思っていたら、それがそのままほっとかれていたんですよ。この宮良殿内が。で、宮良殿内に行ったのが2019年。
*仁添まりな(にぞえ まりな)(1993- )沖縄出身の日本画家。沖縄県立芸術大学博士課程(日本画)修了

金:そうですね。19年から20年で。

喜屋武:はい。調査を再開したのが、2019年だったので、宮良殿内は1819年建立と言われていますからちょうど200年の節目だったんですよ。呼ばれた〜みたいな! 復元事業で力をつけさせていただいたおかげです。東京文化財研究所の早川先生に分析していただいたら、やっぱりとても良い絵具が使われてた。

金:あー。

喜屋武:はい。ベロ藍とか、花白緑っていう人工顔料が使われていました。その当時の最先端の絵具ですよね。人工的な。ああいう絵具も、琉球ではあの北斎より先にベロ藍が使われていたし。

池田:わ!

喜屋武:そうなんですよ。琉球絵画。

池田:最先端!

喜屋武:最先端だった。離島の沖縄、石垣島で…

池田:いやいや。見方を変えると、中心によっぽど近い。

金:そりゃそうですよ。王国だし。

喜屋武:沖縄本島はもう全部戦争で焼けてないけれど、宮良殿内には板戸絵が残っているんで。ま、それをどうにか。

小勝:なるほど。

金:それを早速、ご自分の研究に繋げて19年から20年…

小勝:それでその科研費を…

喜屋武:私にとって科研費はとてもハードルが高いものだったのですが、平良優季さんのアドバイスのおかげで、まさかと思ったんですけど取れました。ありがたいです。科研費をとってからは行きやすくなりましたね。

小勝:そうですか。これ(科研費)はお1人でですか。

喜屋武:はい。代表でやっているんですけど。もちろん助けて…手伝ってもらいながら。はい。やっている感じで…

小勝:なるほど。良かったですね。

金:だからこれが「宮良殿内板戸絵の素材及び技法研究~琉球絵画の一側面~」という科研ですね。まだ続いている?

喜屋武:まだ続いています。はい。それでちょうど復帰50周年の際、NHKに取材していただける機会に恵まれて。

小勝:そうですか。あのNHKのビデオが見られなくて本当残念。

金:ちょうどその、今現在インタビューしている、このキャンプタルガニーの会場の七人の作家による「素材と表現2023 膠がつなぐひととひと」のところに先ほど伺ったんですけど。ここのインタビューのあれで、この《昇華》と《共鳴》の出会いについてたっぷり話をしてくださると…

喜屋武:《昇華》と《共鳴》…。
*データベース参照 図版2 《共鳴―昇華》2022-2023年 https://asianw-art.com/kyan-chie/

金:《共鳴》は、あの佐喜眞(美術館)に展示されていたそうですね。

喜屋武:はい。佐喜眞美術館で。で、あの《共鳴》について文章を(皆さんに)お送りしました。

金:あ、はい。いただきました。

喜屋武:あの…佐喜眞美術館は、特別な場所…ですよね。普天間基地の一部を取り戻し建設された美術館で、藝術を通して平和の尊さを発信する「もの想う空間」だと館長の佐喜眞さんはおっしゃっています。
2022年に開催された「「復帰」後 私たちの日常はどこに帰ったのか」展がきっかけで、《共鳴》は生まれました。

小勝:ええ。

喜屋武:やっぱり、その、それだけでは、完成してないって言ったら変な言い方ですけど。自分はなんかもう、描かせてもらったというか、自分は、受けたものをその通路として、出させてもらった(という気がします)。で、その場所とまた響く。それで、それを見に来てくださった方、見る人と場所と、その時と作品とがきっかけになって共鳴が起こって、なんか立ち上がるものが見えたら幸せだなと思って制作していて…
まあ、その時のこの《共鳴》も、タルガニーで展示してもらえるっていうことで。まあ、そこで発表するにあたって…もちろん、素材もあの読谷飛行場の赤土も使用しながら描いているんですけど。で、ここにも、まあ特に《共鳴》は「母性性」っていうことで、あの円環の形が…さっきからネイティブの動きが好き(とお話ししましたが)、あの動き。円環だったり、こう…はじめもなければ終わりもないっていう、円の動き…が、なんていうんですかね。ちょうど大好きな叔母も亡くした時期でもあったんですけれども、生まれることも死ぬことも自然な営みで、起きて、まあ寝るようなもので。寂しいけれど、喜びで、生まれて亡くなって、っていう風に、こうエネルギーが変換するだけの。まあ始まりもなければ終わりもない。星が生まれて消えていくのも一緒だけれども、また生まれてくるっていうような感覚を、なんか、この作品に表現したかったんです。

金:あー、そうですね…。

喜屋武:そういう部分があって。で、そういうのをタルガニーで置くってことは、自分自身は戦争体験はしていないですけれども…いろんな、母とかから、やっぱり(母も)戦争体験者なので、話を聞いたり。沖縄で生まれたってことで、そういう話もたくさん聞いたりして育ってきたので。なんか自分がここでやっぱり生まれて表現するにあたって、なんかそういう命に対してもこう…「絶対にもう戦争は起こさせない」っていうような気持ちとか願いも込めて描いた部分もある…ということです。
それで、このタルガニーで《共鳴》を展示する。で、元々この作品は、あの北斎の《男浪》《女浪》って皆さん、ご存知ですか。北斎の《男浪》《女浪》は、結構かなり前に学部時代に何か本の、あのちっちゃいもので初めて最初見たんですけど。「宇宙!」と思ったんですよ。なんていうんですか。で、阿吽じゃないけど。始まりと終わりで。母性性とか父性性とか、まあ陰と陽とか。まあ両極あったりするけれども、それがどちらも融合して一つの世界になるっていうか。どちらも大切だし…っていう部分で、なんかそういう母性性と父性性だったり。まあ陰と陽だったりっていうのを描きたいと思ってて。この《昇華》…あ、最初はこの《共鳴》一点だけだったんですけど。あの機会を得たので、もう一点…描いたと。で、それをどう…ここのタルガニーで一緒に合わせることができるかということで、しかも今回こうやって(皆さんに)お話を聞いてもらえて、見ていただいてっていう…。また時と場所と作品と人と一致して…、「共鳴しているな」って、とても思っています。
 
金:ありがとうございます。私の質問はここまでです。皆さん、何か追加の質問とか…あと、喜屋武さんの方からもっとこれを話したい、ご自由に話して、皆さんもご自由に質問なさっでください。

喜屋武:いや、もう…たくさん話させていただいて…(笑)

金:いえいえ、とっても、ほんとに…

小勝:ねえ、素晴らしいお話、ほんとうに。この今の場所を得て、こちらの《共鳴》と《昇華》とね、一緒に拝見できてほんとうに素晴らしい機会だった。

喜屋武:こちらこそほんとうに幸せです。

金:この場所も素晴らしくて。

喜屋武:(タルガニーのオーナーの)大田さんもこの米須出身ですが、米須はとても激戦区で。たくさんの人が亡くなっています。そういう土地で。それでここに、鎮魂と「もう戦争は絶対に起こさせない」という思いが赤壁には込められているそうです。この壁の赤はそういう人たちの血の色だそうで。で、真喜志勉さんが調合して古代朱の色で…

金:ああ、そうなんですね。

喜屋武:はい。その色のこういうタルガニーという場所で(展示とお話ができて)、なんていうんですか。今回、最高です。

金:そうですね。

小勝:あ、えっと最後に、あの惠信さんも(質問リストに)書いてますが、今までお聞きした方々にも、自分の後の世代の女性アーティスト達に向けて、何かこうメッセージというか、まあ言っておきたいことが、自分の経験を含めて、何かありましたら一言(お願いします)。

金:特にできれば、女性アーティスト達に向けて。まあ女性に限らずですけど。一言メッセージがあれば。

喜屋武:私…まだまだ、物を申せる立場じゃないんですが。いや、でも本当に大学とかでも創作している学生さんたちとかも触れ合ったり。で、あとはまあ創作とは違うんですけれども、保育園で子どもたち…未来の子どもたちと触れ合ったりしている中で、あの、なんだろう…。若い世代なんだけれども…変な言い方なんですけど。まあ未来を担う、同志じゃないですけど。なんかそういう部分も感じたり。で、生まれてきた子達っていうのは、逆に自分のずっと前に生きていた先輩がまた生まれてきたような。「あなたほんとに3歳?」っていうような、ほんとに悟っているような子もいたりして。だから、なんだろう。まあ、屋久杉から見たらみんな同い年じゃないですけど…。

金:それは言えますね。

喜屋武:だから、…なんかこう若い世代っていうよりは、今の時代を共に生きてる仲間って気がして。なので、私はあなたで、あなたは私じゃないけど、なんて言うんですか。こう自分と他人というよりは、同じ時代を生きて、創作し未来を作っていく仲間っていう気持ちがしていて。だから、なんていうのかな…。今をワクワクと一緒に楽しもう!みたいな、そんな気持ち。

金:なるほど、なるほど。いい!

小勝:素晴らしい!

金:私もね、3代上と私たちは後から見ると大体同じ世代だよと学生たちによく言うんですよ。

喜屋武:はい。

金:そうですよね。

喜屋武:はい。

金:60歳の年の差なんてね。後から見るとね。

喜屋武:そうそう。全く同い年。

金:20世紀始まって初頭から半ばくらいまでは大体同じ世代だよという。

喜屋武:そうですよね。

金:だから、私たちも歴史を話すときに言うじゃないですか。実を言うとあの歴史の人物は、あんなに年の差があるのに大体同じ世代にするじゃない。

喜屋武:そう、そうですよね。

金:「屋久杉から見ると同じ世代」は、すごいああいう素敵な言葉は言えないですけど(笑)

喜屋武:だからいつもそう思っていて。あの《那智の滝図》とか、もうすごく前から見たくて。なんか偶然、根津(美術館)に行った時に展示されていて、見ることができたんですけど。だから、作品とかって時空を超えて…まあ(《白澤の図》の)自了さんもそうですけど、あの(作品を通して)会話ができるし。その時の人たちの思いがわあ〜って流れてくる。だから自分たちが今描いているものが、もしかしたら未来のまだ生まれてきていない人たちともまた会話ができるっていう思いで描いているつもりではあるんですけど。そんな感じです。

小勝:ありがとうございます。素晴らしい〜。すごい締めくくり。

金:でもご自身の作品ともものすごく繋がるお話ですね。

小勝:本当にありがとうございました。

一同:拍手

喜屋武:ありがとうございました。

 

庭に開かれたスペースで和やかにインタビュー。
左から、金、池田、川浪、喜屋武(撮影:小勝)

キャンプタルガニーのオーナー、大田和人さんを囲んで。
左から、川浪、金、喜屋武、大田、小勝(撮影:池田)